日本大好きじいさんの落書き帳

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告|
  3. トラックバック(-)|
  4. コメント(-)

自立国家の建設 093

 ◆ 目次ページに戻る

さて、十月も下旬になってのある日、海都にあるタイラーは、ようやくそのオフィスに女神さまの訪問を受けることに成功していたが、例によって、ここ数日、必死にお出でを願った結果だ。

実は、近頃一際気掛かりな情報を得ていたのである。

それによると、女神さま自身がここのところ魔王に随従して東京入りしていたことになっており、少なくとも魔王自身が銀座のクラブ碧どころか、官邸にまで顔を出した形跡があると言うのだ。

あの魔王が、まさか単に酒を飲みに官邸に寄ったと思う人間はいまい。

新田までが同行したと言う者までいることから、何かしら重要な打ち合わせがなされたと見ており、その点でも女神さまだけが頼りだ。

まして彼女は、自分にとっては、ようやく勝ち得た特別な権威の源泉でもあり、その存在感はいや増すばかりなのである。

「お運びを頂きまして、まことにありがとうございます。」

いつものように、ひたすら低姿勢で行くほかは無い。

「いいえ、いつも何かとお気遣いをいただき、こちらの方こそお礼を申し上げなければなりませんわ。」

実は、つい最近も大層な名画を贈っているのだ。

オークションに掛ければ、十数億(日本円)は下るまい。

「いえいえ、ほんの気持ちばかりのものですからお気になさらずに。それより、近頃は東京へお出かけだったと伺いましたが。」

「あら、私どもの住まいは元々から東京ですわ。」

「あ、お出かけでは無く、お帰りになられたわけですな。」

「おほほほ。」

タイラーのアリアドネは、実にあでやかな笑顔を見せてくれているが、肝心の勝負はこれからなのだ。

見れば、その耳元ではダイヤのイヤリングが豪華な輝きを放っており、それは、例の特殊な通信能力の謎の一端が、そこにこそ隠されていると思わせるものでもある。

「東京の方では、さぞ大勢の方にお会いになられたことでしょうな。」

ワシントンにとっては殊更重要な話柄であり、早速そこから探りを入れて行く。

「そうでもありませんでしたわ。いろいろと身の回りの整理に忙しかったものですから。」

「え、それは又どうして?」

タイラーにしてみれば、聞き捨てならない一言である。

「いえ、個人的なことでございますから。」

「それでは、ひょっとしてお目出度いお話でも・・・・」

若い娘が、個人的なことで身の回りの整理に忙しいなどと言う。

一瞬結婚話でもと思ってしまったのだ。

まして、これほどの美女である。

その年齢から言っても、あり得ない話ではないだろう。

「まあ、考えようによっては目出度くないこともありませんけれど。」

「じゃ、やはりご結婚を・・・」

「あらあら、飛んでもありませんわ。一言で言えば転勤の可能性が出て来たと言うことでしょうか。」

「え、転勤?まさか・・・」

「はい、そのまさかです。」

「と、申されますと?」

「丹波ですわ。」

問題の丹波に転勤だと言う。

「ええっ、ほんとですか?」

「未だ、確定と言うわけではございませんが。」

「しかし、それは又急なお話ですなあ。」

「我が社の代表なども、そろそろ時間切れかしらなどと申しておりましたから。」

我が社の代表とは、無論東京にいる女帝のことであり、それが時間切れだと言ったと言うのだ。

「ちょっ、ちょっと待って下さいよ、それじゃ東京の姉上さまが、もう時間切れだと仰ったのですね。」

例の七カ国協議の論議が停滞してしまって既に久しいが、いよいよその行く末に見切りを付けて、丹波へ移動する意思を固めたとも取れる話では無いか。

彼女達姉妹は全員が魔王の使徒である以上、その場合も、当然主(あるじ)に付き随ってのことに違いない。

「はい。」

「それでは、秋津州商事の本拠を丹波にお移しになるとお決めになられたと?」

「どの道、今年中に準備にかからないと間に合いませんから。」

思えば、一件の重大性をワシントンが認識したのが昨年(二千七年)の暮れのことであり、それから既に十一ヶ月のときが過ぎようとしていながら、丹波の新領土が定まる気配も無い。

暦は既に、二千八年の十月を過ぎようとしているのである。

ワシントン自身も避難完了の限界点を二千十年中と判断しており、この意味でもことは急ぐのだが、それでも新領土の配分方法が纏まらない。

そのため業を煮やした魔王の一派が、工事開始時期の限界点を今年一杯と判断したに違いない。

頭の中で何かが、音を立てて疾走している。

「しかし、あちらには未だマーケットが・・・」

「あら、私ども日本人だけでも一億を越してますし、それに丹波の秋津州人も四億は下らない筈ですわ。」

「それじゃあ・・・」

タイラーは、文字通り絶句してしまったのである。


その結果、ワシントンは重大な報せを受けることになった。

タイラーレポートである。

この悲壮感に溢れた報告書が、ある意味世界の歴史を変えることになった。

それが、常日頃「秋津州の代弁者」、若しくは「秋津州の友人」と称されている特別な人物が作成したものであっただけに、ワシントンの地において一層重量感を増してしまったのも無理は無い。

既に触れたが、この時期のタイラーは膨大な予算を手にしており、その資金力を活かして猛烈なプレゼント攻勢に打って出ていたのである。

今では、女神さまの姉である秋元涼氏にまで接近を果たしたばかりか、長姉の女帝を通じて、その他の姉妹にまでそれぞれ大層なプレゼントを贈るまでになって来ており、ますます貴重かつ格別な人脈を築きつつあることを実感しているほどなのだ。

今次のレポートの情報源にしても無論その女神さまである上、傍から何と言われようと、タイラー自身は吹き上がって来る愛国心に突き動かされるようにして立ち働いているつもりでおり、世界各地で買い漁った高額の美術品はもとより、由緒ある宝石や貴金属が奔流のように海都に流れ込み、次々と女神さまの手に渡って行き、その見返りのようにして数々の情報がタイラーの手許に流れたのである。

現に、今までその情報が結果的に虚偽のものであったためしは無く、まして「秋津州の本音」と言う切り口に限れば、女帝からのものはさておき、女神さまの情報が唯一無二のものであり続けており、少なくともタイラーにとって、このプレゼント作戦は限り無く効果的なものに見えたに違いない。

その多くが、やがて秋桜資金に転換してしまうことなぞ、夢にも思わなかったことだけは確かであり、おろかにもこの作戦はその後も延々と続くことになってしまうのだ。

尤も、この愚劣な作戦は何も合衆国に限ったことでは無い。

既に英仏独中露を始め、中東などの産油国は勿論、その他にも数多くのエントリーが目白押しになって来ており、各国共に自国の生存を賭して参加しているこのレースが、驚くほど巨額の資金移動を伴ったことは想像に難くない。

とうに秋津州円と言う通貨までがごく普通にプレゼントの対象となりつつあり、それも極めて多額のものが贈られているのだが、この場合の女神さまの実体は一民間人であると同時に、紛れも無くヒューマノイドなのである。

もとより、ヒューマノイドに個人的な欲望などあろう筈も無い。

現実の女神(じょしん)アリアドネは紛れも無く女帝の指揮下で動いており、その恐るべき政略の結果、タイラーレポートが生まれ、やがてワシントンを震撼させてしまうに至るのだが、タイラー自身は未だに秋元姉妹がヒューマノイドだなどとは思っても見ない。

少なくとも、女神さまとその姉妹たちが、これほどまでの高価なプレゼントを受けて喜ばぬ筈は無いと信じて疑わないのである。

そのプレゼントにしても、既に発展途上国の国家予算など軽々と凌駕するほどのものになってしまっている今、その成果として入手する情報が無価値なものであっては困ることにもなる。

既に「秋津州の友人」としての奇妙な権力を手にしている今となっては、タイラーには、その意味での都合と言うものもある。

普通、人と言うものは既存の権益を維持したいと願う生きものであり、この場合のタイラーが、多少偏った行動原理を持ち始めていたとしても到底責められまい。

生身の人間である以上、自身どこまで認識しているかどうかはさて置き、自然にそうならざるを得ないのだ。

したがって、秋津州に対する自らの交渉能力と情報収集能力が、共に他に比類の無いほどのものであることを一層強くアピールすることによって、一旦手にした権益の足場に更なる補強を加えたいと願ったとしても不思議は無い。

その情報が、ワシントンを驚愕させるに足るものであればあるほどその威力を増すのは当然で、かくしてタイラーレポートの内容はますます刺激的なものにならざるを得ず、その結果、それは、いよいよ以て重々しい装飾が施されることになってしまった。

それによれば、魔王と新田がその影響力を行使した結果、魔王はもとより、同盟国であるあの日本までが、合衆国はおろか、全世界の国々との協調路線を一切擲ち、独自の行動を取ることを決定しつつあると言う。

不遜にも四億ほどの秋津州人と日本人が共謀し、丹波において身勝手極まりない独自文明を打ち建てようと目論んでいるとされており、はっきり言えば、丹波の全てを独占しようとしていると言うのである。

その身勝手な目論見では、丹波において既に我が合衆国の居場所は無いことにされており、結局タイラーレポートの論旨の底辺に流れていたものは、合衆国が置き去りにされてしまうことから来る恐怖そのものなのだ。

ワシントンにとって、他国が捨てられるならいざ知らず、この合衆国が捨てられることだけはあってはならないことであり、ましてこの場合、相手があの日秋連合である以上、我が合衆国は選択権を失ってしまったことになるとまで言う。

元来、ワシントンから見た日本は、その貿易立国と言う側面から言っても、合衆国の市場価値をないがしろにすることは許されず、市場の相互補完の重要性から見ても合衆国を見捨てる筈は無いと見なされており、それが証拠につい最近も、合衆国の兵器類を可能な限り丹波に搬送してもらえるよう、あの魔王に積極的に働き掛けてくれていたほどなのだ。

ところが豈はからんやそのレポートは、一転して日秋連合が軽々と合衆国を見捨てることに決し、その生存権すら否定されてしまったも同然だと論じてさえいる。

少なくともタイラーレポートはそう結んでおり、言い換えれば、秋津州の友人たる怯懦の一犬が大声で「虚に吠えて」しまったと言う他は無い。

それはまた、ワシントンに巣食う万犬の心を激しく揺さぶることに通じ、恐怖のあまり必死の対日工作が開始される道に繋がって行った。

その必死さが珍しく真摯な姿勢を生み、その異様なばかりの腰の低さが後々までの語り草になったとは言うが、怯えきったワシントンを見るにつけ、最早、白頭鷲が手乗り文鳥に変じてしまったと言うものさえいる。

可愛げに囀る手乗り文鳥は、丹波の分配案に関しても直ちに劇的な大転換を果たし、一気に日本案に擦り寄り始め、七カ国協議の場においてもその姿勢を鮮明にするに至った。

その姿勢から匂い立って来るものは、最早、卑屈と言う言葉以外の何ものでもないのである。

確かに、白頭鷲は恐怖のあまり屈服したには違いないが、かと言って国家の存続を期すことは何れの国家にとっても絶対の正義であり、決して恥じることは無い筈だ。

過去において、数多くの国々が皆そうして生き延びて来たのであり、白頭鷲もまた同様の行動を取ったに過ぎないのだが、現実にそれを目の当たりにした世界は引っくり返るほどに驚いてしまった。

いや、最も驚いたのは日本政府の方であったかも知れない。

ことにあたって国井義人には、密かに胸をよぎるものがあっただろう。

かつて、あの若者が白頭鷲の扱いについて語った言葉をである。

そのときの若者は、いみじくも「未だ生煮えであり、迂闊に食すると食中毒を起こす。」と曰(のたま)わったのだ。

当時の自分には全く実感が沸かないことだったが、若者があの白頭鷲をどう料理して見せてくれるのかには、非常な興味を覚えたことだけは今も鮮明に覚えている。

如何に秋津州国王であっても、あの気位の高い白頭鷲を完璧に屈服させるのは、容易では無いだろうと思ったのだ。

ところが豈図らんや、見事に時勢が変転し、あり得べきか、あの白頭鷲が手乗り文鳥に変身してしまい、最早、煮て喰おうが焼いて食おうが、食中毒を起こす恐れはまず無いと言って良い。

思えらく、今を去ること、たかだか六十有余年の千九百四十一年のことを。

当時の白頭鷲は日本の全面屈服を意味する最後通牒を傲然と発し、それによって我が日本は屈服か戦争かの二者択一を迫られたが、今回の流れにおいては奇しくもその立場が見事に逆転してしまっており、現在の日秋関係がある以上、我が日本はあの白頭鷲に対し、まさに生殺与奪の権を手中にしたことになるのである。

ただし、この日本は当時の白頭鷲とは大きくこと違い、相手を徹底的に愚弄するような外交姿勢など、まったくと言って良いほどとってはいないのだ。

一貫して誠実な対米外交に終始して来た筈だ。

ただ、この私が、独立国の指揮官として、単に「独自行動」と言う正当な権利を行使する決意を固めたに過ぎない。

ちなみに、入居以来、国井は公邸の居室に曽祖父や祖父や伯父たちの遺影を掲げている。

向き合えば、そのいずれもが軍服を着て慈愛に満ちた穏やかな視線を送ってくれる者たちだが、その全てが、祖国の為に外地で散って行った者ばかりで、未だに遺骨どころか遺髪すら戻って来てはいないのだ。

いま改めてその遺影の前に立ち、現状のあれこれを報告し、両の手を合わせながら、万感胸に迫り、何ものかが込み上げて来てしまうのを禁じ得ない。

振り返れば往時茫々、自らが政治家を志して以来、散々に味あわされて来た白頭鷲の横暴を今更ながら想わざるを得ないのだ。

しかし、一国の指揮を執る身にとって、これ以上便々と私情に浸っている余裕は無い。

激動する世界が眼前にあり、日々刻々と決断を下さねばならないことは山ほどにある。

現に、ワシントンが昨日までの主張を軽々と撤回したことにより、国際舞台の裏側では無数の歯車が音を立てて回り始めており、目を皿のようにして東京を見詰めている億兆の視線を感じるのだ。

日本国政府の政治姿勢を、ただ一筋に注視しているのである。

国井は直ちに訓令を発し、七カ国協議における日本代表を以て言わしめた。

「ことここに至れば、我が日本国は独立国として他国の政治姿勢の如何を問わず、ただ己れの信ずる道を進むのみである。」と。

粛々と発言を終え、直ちに退席しようとする日本代表を見るに及んで、その他の六カ国代表は顔色を変えて押しとどめようとした。

遂には哀願さえしたのである。

日本代表は一応席に着きはしたが、その後国井の指示通り見事に沈黙を守った。

沈黙はしたが、その確固たる意思の存在が、その場の空気に止めを刺したことは確かであり、丹波の分配案を巡る趨勢は一気に日本側に傾いた。

当然であったろう。

何せ日本は、「他国の政治姿勢の如何を問わず。」と宣言してしまっているのである。

既にそこには米国中心の集団的安全保障体制も無く、七カ国協議などはるかに超越した新世界が茫々漠々として広がって行くばかりだ。

その上、日本代表の沈黙が、異様なほどの圧力となってその場の空気を支配してしまったことも事実だろう。

例え何を決議しようと、日本は既に「他国の政治姿勢の如何を問わず。」なのである。

その沈黙そのものが、言わば、「ご随意に。」「ご勝手にどうぞ。」と突き放しているようなもので、挙句日本代表が退席して行ってしまえば、残りの六カ国が何を話し合おうが全く無意味なものと成り果ててしまうことは明らかだ。

その異様な空気の中で多少の摺り合わせが行われた結果、丹波において、新たに台湾共和国を始めイロコイ連邦や西サハラ、及びパレスティナなどの国権が追認され、合意が形成されるまでにたいした時間はかからなかったのである。

無論、「敷島」は日本の主張して来た通り新たな日本領土となる前提であり、日本案を下敷きにしたこの合意案が各国政府に公告された結果、これに表立って反対するような国家は一国も無い。

尤も、全く齟齬が無かったかと言えばそうではなく、例の無国籍者用の居住区の扱いだけが若干の論議を要することになった。

この合意案では、無国籍者用の居住区が米国領に隣接する形で設定されていたのだが、そこへ避難させるべき無国籍者たちの管理責任の所在が宙に浮いてしまったのである。

国際連合難民高等弁務官事務所(UNHCR)はおろか、国連そのものもその任では無いと主張していると言う。

コスト面から言っても、或いは能力の面から言っても、その膨大かつ困難な作業を成し遂げることは到底不可能だと言うのだ。

尤も、国連などと言って見たところで、所詮大いなる町会のようなものに過ぎず、町会費を負担するのは全てその町会の会員たる一般家庭であるのと同様に、国連の場合と言えども、その経費はそれぞれの加盟国が負担するほかは無いのである。

今回の無国籍者の保護に関する途方も無い経費にしても、全て新たな拠出を必要とする筈であり、まして、その負担金の大部分は、七カ国協議の参加国が拠出するものに頼らざるを得ないのだ。

いずれの国家も自国の避難移住に関わる経費だけでも、現に大きな不安を抱えていると言うあたりが偽らざるところであり、いきおい、新たな拠出については消極的にならざるを得ない。

百歩譲って巨額のコストを覚悟したとしても、全世界に散在する無国籍者を特定抽出し、なおかつ万全の保護を加え、その全ての避難移住を成功裏に果たすなど誰の目にも不可能に見える。

その上、幾多の障碍を乗り越え当初の目的を果たし得たとしても、その後においても膨大な無国籍者の保護を延々と続けて行かねばならず、どう考えても無国籍者を抽出して別途に対応するなど夢のまた夢なのである。

何分にも、巷間囁かれている無国籍者の総数は数億とも言われており、一般の難民の数とはそれこそ桁が違ってしまっている。

誰にしても、そこまでのことを担保出来るとは思えないのであろう。

結局、無国籍者に別途対応するなど、費用の面でも能力の面でも不可能と言うことがますます鮮明になるばかりで、その結果、例の専用居住区の管理義務を負うものが不在と言う結果に通じ、その領有権の行方も又宙に浮いてしまったことになるのだ。

その地に隣接する合衆国は得たりや応と自国領土に編入すべく盛んに主張したが、中露仏からは不公平だとして猛烈な反対論が沸き起こり、結局、どこの国家もその領有を諦めざるを得なくなり、元来の領主である秋津州国王に返納すべきことが決議された。

詰まり、再度秋津州の直轄領となったのである。

決議が成ったその瞬間、国王はその地を以て「任那の郷(みまなのごう)」と命名した上、まるまる一個兵団と言う途方も無い戦力と共に、怒涛のように資材を投入して作業に入った。

不思議なことに任那建設の青写真は既に見事に完成しており、十指に余る近代的な都市造りが信じ難いほどの規模を以て開始された。

一個兵団と言えば無論六十四個軍団のことであり、かつての秋津州戦争のときですら、実際に投入された兵力は二個軍団だけであったことから見ても、その工事の凄まじい進捗振りが思い浮かぶ筈だ。

無論、ここでも白頭鷲は臍(ほぞ)を噛むことになる。

そもそも、この任那の郷(みまなのごう)と命名された領域は、馬酔木の山斎(あしびのしま)の東端から見て、そのまた東方四千キロほど彼方の大陸の西岸にあり、新たな合衆国においてその西海岸の殆どを塞ぐ形で、百万平方キロもの面積を以て広がっているのである。

なお、これを現在の合衆国の領土に比定して見た場合、あたかもオレゴン州、カリフォルニア州、ネバダ州の三州を合体させたような領域をイメージすれば、当たらずと言えども遠くは無い。

ロスやシスコ、ハリウッドやロングビーチ、或いはラスベガスなどで知られる領域だと言えば、なおのこと通りが良いだろう。

また、百万平方キロと言えば、それだけで既に現在の日本の三倍もの面積であり、我々日本人の感覚では最早「広大な」大地だと言って良いほどで、加うるにそこは大いなる山川と豊かな水系を併せ持ち、溢れるほどの地下資源の在りかまで確認されている。

また、秋津州にとって、その抜きん出た技術力がある以上、この任那の郷は、馬酔木の山斎の東岸とは一衣帯水(いちいたいすい)と言ってしまっても過言では無い。

こと、秋津州の視点に立つ限り、その間に横たわる幅四千キロもの海洋帯も、せいぜいその辺を流れるごく小規模の河川に異ならないのである。

しかしながら、合衆国側から見ればその四千キロの海域は大いなる海洋であり、軍事上のあれこれも含め、全てにわたって一方的な不利益ばかりを感じざるを得ない。

したがって、新たな合衆国から見た任那の地政学上の戦略的価値は、途方も無いものとなってしまった。

くどいようだが、その任那の郷が秋津州領であり続けることが、改めて国際的に確定してしまったのである。

その横っ腹に、常に任那と言う名の銃口を突きつけられているような思いを持つのだろうが、如何に臍を噛んでも手乗り文鳥の分際では今更如何ともし難い。

任那概略図 (サムネイル画像をクリックし、別窓が開いたら、地図上でもう一度クリックして拡大してからご覧下さい。)

MimanaKakutei


また、国王の直轄領の中に「秋桜(こすもす)」なる領域が自立を目指しているらしいことも、世界の殆どが知ることになったが当然異論など出る筈も無かった。

国王の直轄領の内部に関する事柄は、全て国王自身の恣意的な判断によることが最初から明らかで、例えその領域内で何が行われようと物申すだけの資格すら持たないからだ。

結局、肝心のガンマ線バーストの齎す被害規模に関しては公式に発表されることが無いままに、各国それぞれが、それぞれの「新領土」に係員を派遣する向きが強まり、そのサポートをせまられた国王は、当然凄まじい繁忙の海の中に叩き込まれた。

何せ、各国と丹波との間で凄まじい頻度で往復移送を繰り返させられた挙句、それは一週間で一千回を超えるに至ったのだ。

まして、その作業が一週間やそこいらで終わるわけも無い。

尤も、各国それぞれの方から見れば押しなべて週五回づつほどのことでもあり、その上、その特殊な技術が、いつに国王の個人的な能力に掛かっているものだなどとは知る由も無い。

したがって、国王が寝る暇も無いほど、その作業に忙殺されてしまっているなどとは夢想だにしなかったのである。


その後、各国政府が丹波現地のそれぞれの領土に相当な機器と人員を送り込み、領土に沿岸部を含む国々では、真っ先に八雲島との回線を開くことから仕事を始めたようだ。

何せ、既に海底ケーブルの敷設が見事に完了しており、それを用いた通信が可能である上に、国王所有の通信衛星まで機能しているのである。

幾分かの使用料を負担したとしても、それらの効果は特筆されて然るべきであったろう。

また、殆どの政府が、例のクーリエ便のような形式で揃ってSS六改の借用を求め、新たな機体が一気に数千機も貸し出されることになり、八雲島に本拠を置く大和商事なる一企業が、その全てに対応することが明らかにされた。

その企業は二十万機にも及ぶ予備機を以て、常時二万機の貸し出し業務にも耐え得る態勢を整えたとしており、ほかに満足な輸送手段を持てないと言う特殊な状況を見る限り、その希少価値とも相俟って凄まじい威力を発揮するに違いない。

何せ、既に地球上においても充分過ぎる実績があり、素晴らしい機能を持つことが証明済みなのだ。

この大和商事と言う企業は、機材搬送用の大小さまざまなポッドについても貸し出し態勢を整え、やがてそれをも発表するに至るのである。

その企業にしても、言うまでも無く国王の所有になるものであることは確かだろう。

 ◆ 目次ページに戻る

スポンサーサイト
  1. 2007/09/03(月) 12:58:25|
  2. 妄想小説 主権国家|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0

自立国家の建設 094

 ◆ 目次ページに戻る

やがて十一月の初頭に至ると、丹波の各領土において、それぞれに駐屯中の秋津州軍との間で、一斉に国土の委譲式典が執り行われ、同時に全ての国境線が、新たに舞い降りた膨大なヒューマノイドの手によって固められた。

国土委譲に際して、秋津州軍は全ての国境線を精密な測量図を以て厳格に規定しており、なおかつ、そのデータを事前に公表することを以て魔王の意思を明示し、以後の国境紛争を未然に防ごうと計ったのである。

現実に秋津州軍が固めている以上、その国境線に異議を唱えることは、公然魔王に抗うことに通ずる。

又、それぞれの領域には、主として農耕や林業に従事させていた原住民形式の秋津州人たちがいるが、秋津州側がそれを全て引き揚げる意向を示したところ、当分はそのままで農耕作業を担って欲しい旨の依頼が殺到することになった。

いずれの国も、いきなり引き揚げられては、農地や山林の管理が出来なくなってしまうと言う。

そのため、各領域に相当な戦力を残すことを強いられたが、その場合の原住民の全ては、秋津州とその現地国家の両方の国籍を持つこととし、引き揚げの時期に関しても一方的に秋津州側の都合によることを条件と定めた上、その旨を謳う一札を入れさせた。

すなわち、その現地国家が「恣意的」に国外退去処分に出ることを封じたのである。

また、各国それぞれが、自国の新領土獲得とその内容について堂々国民に公表したが、例の新天地報道作戦が大いに功を奏し、丹波と言う天体が人類の生存に適していると言う認識が既に一般化してしまっていたこともあり、既存の領土に加えて新たに獲得した領土とする公式発表は、ほとんどの場合歓呼の声を以て迎えられた。

やがて、各国の冒険心に富んだ国民の多くが、新領土に渡って新たな何物かを始めたいとする動きが目に見えて活発化するに至り、自国の政府機関にその旨を申請に及ぶ者が現実に現れたのである。

だが、くどいようだが、各国の新領土は、農地のほかは全て原始的な風景に彩られたままなのだ。

多くの場合、秋津州側から付与されたデータをそのまま鵜呑みにする気にもなれず、現地における基礎的な調査活動から始めなければならない状況にある。

ところが、日本の新領土の敷島に限っては、既に国土建設に関わる明確な青写真が確定してしまっている上、そのことのために先陣を切って働くべき日本人が、委譲式典と時を同じくして先ず十万人ほども丹波入りを果たし、直ぐ隣の秋桜を基地とすることによって、既に他国に先んずる勢いを示していたのである。

プロジェクトAティームも新田グループも皆活き活きとして立ち働き、委譲式典が行われる前に早くも青写真の不備を猛然と埋め尽くしていた上、日本の建設関連業界などは銀座の吉川桜子の後押しを得て、要員と共にさまざまな機材を惜しげもなく投入したため、前線基地としての秋桜には数十万人単位の「村落」が多数生まれることになった。

村落とは言うが、秋桜の各地でとうに完成していた大規模な高層集合住宅の一部なのだ。

その高層集合住宅群は、無論近代的な装備を具え、大和商事の経営になる大型店舗が稼動して、日常の生活物資の現地調達をも可能にしている。

今のところ、現地で流通している通貨は秋津州円だけだと言うが、それぞれに相当の秋津州円が現地に持ち込まれており、殆どの場合問題は起きてはいないのだ。

加えて、その高層集合住宅群は大規模な病院設備まで併せ持っており、そこには充分な医療設備と医療スタッフが揃い、当分は役に立たないとは言いながら、日本式の小中学校設備まで見えており、現地入りしたスタッフにとって、既に秋桜は、ほとんど違和感の無い生活環境を与えてくれるものだったのである。

だが、その秋桜とは事違い、新たな日本領と定められた敷島には、農地のほかには、ただただ際限も無い大自然が広がるばかりで、改めて地籍調査や地質調査を行う必要が無いことだけは救いだが、とにかく直ぐには何一つ始まらない。

大量の工事関係者を送り込む以上、本来なら、現地での生活用水の確保から始めなければならず、最低限の道路網と港湾設備を整えてからでなければ、資材の搬入すら儘ならず本格的な大工事には踏み込めないのである。

それほどまでの事態が眼前にあることを改めて財界が認識するのを待って、官邸が鋭く動いた。

その結果、新田からの進言に繋がり、即座に一個軍団が敷島に投入され、さまざまな巨大工事が文字通り猛然と開始された。

天空の基地からは勿論、秋桜と玉垣島からも巨大ポットが膨大な資源を敷島に運び入れ始め、PME方式の発電所や上下水道網は勿論、高速道路を含めた膨大な道路網、そして主要な鉄道網と多数の港湾設備の建設が、秋津州軍の手によって砂塵を舞いて開始されたのだ。

ここで言う一個軍団は、任那の郷に投入された一個兵団には及びもつかないにせよ、それでも五百五十兆に垂(なんな)んとする途方も無い兵力であることは確かで、しかも、一人一人が非常な怪力と飛行能力を兼ね具え、食事も摂らず不眠不休で働き、驚くほどの作業効率を発揮するものばかりであり、結果として、任那などの直轄領を除けば、敷島のインフラ整備ばかりが猛烈な勢いで進捗することになる。

天文学的な数量で鉄の需要が発生することも想定されており、事前に準備されていた膨大な在庫が余裕を持って対応しつつ、その他の荘園は勿論、八雲島やファクトリーの高炉までがフル稼働に入り、秋桜において竣工していた日本企業の高炉にまで火が入った。

殊に惑星「佐渡」からは膨大な鉄鉱石や石炭が補充され続け、さまざまな需要に応えるための工業が秋桜において先行して興ったが、新日鐵とJFEなどの一部を除けば、当初は全てヒューマノイドの手によって運営されており、言わば公営企業の扱いなのである。

既に大規模な石油精製プラントは勿論、セメント工場なども数多く立ち上がって来ており、原油や天然石膏はもとより、石灰石、粘土、ケイ石などと言った主原料も膨大なものが搬入され、順調な操業を続けていた。

挙句に、建設が最も先行していた八雲の郷のドックでは、数百隻ものPME型船舶が進水を終えていると報じられるに至っており、その大きさにしても種類にしてもさまざまなものがあることも明らかとなった。

映像付きで取り上げられているものだけでも、オーシャン・ライナー、フェリー、鉄道車両渡船、カーゴシップ、コンテナ船、ローロー船、艀(はしけ)、漁船、冷凍船と実にさまざまであり、大型のタンカーやバルクキャリアなどに至っては、既に荷積みを終えて碇泊中のものまであると言うのだ。

尤も、例え何千何万の船舶を進水させようとも、その惑星には、王の直轄領以外に大型船の船泊まりを許すような設備を持った港湾など全く存在せず、当分は宝の持ち腐れにならざるを得ない筈なのだが、それにもかかわらず四十を超える超大型ドックが営々として稼動中だとされ、その質量共に卓越した造船能力は、ピザ島のドックの例を見ても一目瞭然であったろう。

無論、そのドックの背後には壮大な工場群が控え、近代的な生産ラインが幅広く稼動しており、さまざまな工業製品に関しても、それぞれ膨大な生産規模を持つことも広く報じられ始めている。

この八雲の郷(八雲島)は、もとより王宮の所在地でもある。

早くからインフラ整備に取り掛かっていたことから、既に全てにおいて太平洋上の秋津州の域をとうに超えてしまっており、その首邑たる一の荘などでは王宮と看做される壮大な建造物が姿を現し、近代的な高層ビルが林立し、高層マンションやホテル群などは言うに及ばず、新たな秋津州ビルに至っては、従前のものの数倍にも及ぶ規模を誇っており、既に一部の国々ではその代表部すら開設しつつあるほどだ。

金融関連などはとうに実稼動に入っているばかりか、既に一の荘の加茂川銀行には多数の口座が開設され、殊に当座預金口座などには膨大な額面の預け入れが始まっており、それらは全て秋桜支店と連動する勢いまで示していると言う。

何しろ、人類の大移動計画が実施されるまでに残すところあと二年ほどでしか無いのだ。

そうであるにもかかわらず、丹波における「諸外国」では、自国の国土建設プランの策定に手間取るケースが数多く見られたが、必ずしも全てがそうであったわけではない。

中でも、台湾共和国が最も早くその策定を終えていたようで、早速に土竜庵に持ち込んで来た。

経緯(いきさつ)から言っても、かなり前の時点で新領土としてのターゲットを絞り込んでいたこともあり、国土委譲の手続きが済むや否や女神(じょしん)アリアドネの関門を潜り、国土開発に関する協力依頼の「請願書」を奉ったのである。

その内容にしても、秋津州連邦の中核にその座を占めていることを以て、ぬけぬけと国土建設の大部分に関して全くの無償支援を願って来ており、その姿勢はどう見てもおんぶに抱っことしか思えない。

詰まり、何から何まで全部只で頼むと言っているに近い。

尤も、この場合の新台湾島の面積が地球上のものと同程度(三.六万平方キロ)のものであることから、その工事も秋津州の国力にとっては、さしたる重荷になるとも思えないが、かと言って秋津州のリソースにも限度と言うものが無いわけではない。

全世界の要望を全て満たしてやることなど到底不可能であり、ここで、台湾の願いを無原則に引き受けてしまえば、典型的な悪しき前例となってしまうことは明らかで、同様の願いが多くの国々から出て来た場合、その対応にも窮することになってしまう。

身勝手な不平不満が、数限りなく噴出して来ることは目に見えており、公式には外事部を通しはしたが、土竜庵は原則論を以て毅然たる反応を返した。

日本にしても、一定以上のコストを負担することは言うまでも無いが、民需用の工事に関しても相当部分を自力で賄うことを決しており、それを原則基準として回答したのだ。

先ず、最低限の発電設備を始め、主要な港湾とそこから内陸へ通じる主要道路の建設を優先して無償支援を行い、その他の工事は原則有償とした上、その後の様子を見てからのことになる旨を以て基準としたのである。

次いで、アフリカ連合(AU:African Union)からも、キャサリンを通じてアフリカ全土に関する大まかな建設プランが出て来たが、この場合は始めから自力優先を謳うものであった。

この新アフリカ大陸の場合も、大陸トータルの領有についてだけは、かなり早くから見通しが立っていたこともあり、そのトータルの青写真に関しても同様だったのであろう。

結果として、新アフリカ大陸にも即座に一個兵団が派遣され、提出されたプランに則り発電設備と港湾及び道路の建設工事がその緒に就き、続々と資材が搬入され始めた。

尤もこの場合の一個兵団は、二千万平方キロの新アフリカ大陸に対して投入された戦力であり、とうに任那に投入されていた一個兵団とは同じ一個兵団であってもその条件が違う。

任那の面積は百万平方キロほどであり、新アフリカ大陸から見れば、ほんの二十分の一でしかないのだ。

不釣り合いなほど膨大な戦力を投入された任那においては、一般の領域では未だその委譲の式典が行われたばかりであるにもかかわらず、既に想像を絶するようなことが起きていたことになる。

今まさに十を超える近代的巨大都市が、その地下設備のもろもろからして全て本格的に造られ始めているのだ。

地下鉄を始めとする殆どの地下隋道が既に基礎工事を完了してしまい、港湾や道路網は勿論、複数の空港の建設までその全てが同時進行しており、その壮大な状況を天空から眺めれば、任那一帯は濛々たる砂塵によって覆い尽くされ、地表の様子など窺うことすら出来なかったろう。

数多くの運河が掘削され、膨大な数の橋が掛けられて各地を結び始めており、一個兵団の威力が遺憾なく発揮され続けることによって、国王の脳裏における任那は、その近代設備の面では、官民ともに概ね六ヶ月もあれば完成してしまうほどのものだったのである。


しかし、その報せは突然に齎された。

のちのちまで語り継がれる、その「こと」が起こってしまうのは二千八年の十一月二十二日のことで、王妃にとっては本来祝福されるべき二十四歳の誕生日になる筈であった。

夫たる国王は凄まじい繁忙の中にあってなお、王宮(実際にはありふれた平屋造りの日本家屋なのだが)におけるささやかな祝いの膳に着くつもりでおり、丹波から帰還する際、直前に東京に立ち寄り、みどりと有紀子を伴って帰る手筈だ。

この意味では、みどりと有紀子は既に家族の扱いなのである。

十畳間(じゅうじょうま)の祝いの席には王妃の両親が早々と顔を揃え、兄の久我正嘉氏もいつも通り弟子を伴って参着しており、あとはみどりたちを連れた国王の臨席を待つばかりであったと言う。

その部屋の中ほどには、未だ火の気は無いにしても掘り炬燵様式のテーブルがあり、かなり大振りのそのテーブルを囲んで、内祝いの準備が和やかに進められていた。

王妃は母の手を借りながら手料理の数々を膳に運び、未だ八ヶ月の真人は祖父の膝に抱かれてご機嫌だったと言い、さぞかし和気藹々たる空気がその場を支配していたことであったろう。

無論床柱を背にして国王夫妻が並ぶ筈であり、その席から見て左側に両親、右側には刀匠とその弟子と言う席次だ。

この分では、国王夫妻から見て正面がみどりと有紀子の席になるのだろうが、その背後の障子を開ければ幅一間(いっけん)の渡り廊下である。

廊下の外側の雨戸は、未だ閉じられる時刻ではなかったろう。

何せ、その部屋には、障子越しに未だ充分明るい陽射しを残している上、中庭を仕切っている竹垣の外には国旗掲揚台が具わり、八咫烏の旗が高々と翻っていた筈なのだ。

その国旗にしても、あと二時間もすれば一隊の儀仗兵が登場して、いつも通り厳かに降納の儀式が採り行われる筈なのだが、それまでは唯の一兵の姿も見ることは無い。

部屋の中に目を転ずれば、床の間の太刀架けには、例の「蝿叩き」が柄頭(つかがしら)を下にして無骨な姿を見せており、真鍮(しんちゅう)製の佩環(はいかん)ばかりが鈍い光を放っていただろう。

その長大な日本刀は無論王妃の実兄たる正嘉氏の作であり、王にとってもかなりのお気に入りと言われており、無骨一点張りの拵え一つとっても王自身の好みによる誂えだった筈だ。

この、王の愛刀もまた、あるじの帰りを待ちわびていたのかも知れない。

しかし惨劇は、皮肉にもこの蝿叩きを用いて起こってしまうのである。

王宮には、つい今しがた内務省からの電話が入り、先ほど丹波から帰還した国王が、銀座の秋津州ビルからみどりたちを伴って、これより神宮前に向かう旨を知らせて来たばかりだ。

何せ、この時点での王宮近辺には、半径八百メートルにわたって秋津州の特殊な通信を担う機能は存在せず、外部との連絡にしても一般の電話に頼るほかに方法が無い。

言い換えれば、この半径八百メートル圏内には秋津州軍は不在であり、その内側は全くの無防備状態だ。

尤も、その外側一帯には微細なG四が無数に活動し、近付く者は本人も気付かないうちに徹底した検査が行われ、例えそれが超小型のものであったとしても、銃器や爆発物を携えての侵入など絶対に許さないほどの、鉄壁の警護態勢が採られていると言って良い。

こう言う環境の中にあって、王妃は夫の帰館が近いことを知らされたことになる。

現在の夫は銀座の秋津州ビルにあって、有紀子の支度が整うのを待っており、それが整い次第神宮前に移動し、出国にあたりそこで正規の手続きを経るつもりなのだ。

当然、その報せは席に連なる全員が知っただろう。

のちになって明らかとなるその経緯は、概ね次のようなものだったと言う。

当時、王妃とその母は主(あるじ)の帰宅に備え、十畳間(じゅうじょうま)とは二部屋ほど隔たった台所部屋で、母娘(おやこ)の会話を楽しみながら酒の支度にかかっていたらしい。

祝いの席が設けられた十畳間には、真人を膝に抱いた祖父と、その向い側の席に刀匠とその弟子との、都合四人の人間がいた筈だ。

やっと首が据わったばかりの真人は、祖父の膝でテーブルの方を向いて何か喋っているつもりらしく、反対側の伯父が何かしら反応を返してやっているさなかであり、いかにも和気藹々たる風情なのである。

ところが、このときまで師匠の下座で殆ど口を開かずにいた弟子が、珍しくも、ある意味高名な作品でもある蝿叩きを拝観したいと申し出たと言う。

てっきりその作品に憧れてのことだろうと思い、師匠も軽い調子でそれを許し、弟子は立って床の間に歩を運び、太刀架けから恭しくそれを取り上げた。

若い弟子は、畳の上に片膝立ちだ。

周りにして見れば、彼が蝿叩きを手に自席に戻るものと思っていたろうが、案に相違してその場で抜刀したばかりか、こともあろうに、やにわに目と鼻の先の赤子の胸を突き刺したのである。

祖父は本能的に赤子をかばいながら左に身をひねったがかなわず、鋭い切っ先は、祖父の右腕を傷付けながら小さな体を易々と突き抜け、祖父の腹部をも刺し貫いた。

無力な赤子は一声もあげ得ずに息絶え、祖父は苦悶しながらも、必死に右手を伸ばして刺客の腕を掴もうともがきながら力尽きた。

この祖父の場合、殆どショック死したと言って良い。

テーブルの上の皿小鉢が吹き飛び、けたたましい音を立てた筈だ。

反対側の席から茫然と見ていた刀匠が慌てて立ち上がろうとしたとき、異様な物音を聞きつけた王妃が次の間(祖父の背後)に顔を出した。

直ぐ後ろにはその母親の顔もあったが、いずれも咄嗟には事態が飲み込めない。

王妃の位置からは、今にも突っ伏して行きそうな父の背中が見えており、その又向こうでは顔色を変えた兄が立ち上がっていた。

刺客は、両手に掴んだ長刀を引き抜きざま顔を上げて王妃を見たと言う。

凶器を引き抜いたことにより殺人者は僅かながら返り血を浴びており、その手には血塗られた長刀がある。

王妃は、その血走った目と視線が合った瞬間に事態を察し、咄嗟に無言のまま組み付こうとしたらしい。

無論、我が子を救いたい一心だったろう。

日本人女性としては抜きん出て大柄の王妃は、無論殺人者よりも長身だったことは確かだが、いかんせん殺人者は長大な凶器を手にしていた。

その瞬間に凶器が突き出され彼女の胸を深々と刺し貫き、挙句に背後から組み付いて来た師匠を、若い体力が力任せに振り飛ばしていたのである。

刺客の足元には既に骸(むくろ)と化した王妃が転がっており、畳一枚隔ててその母が凍りついたように立ち竦んでいる。

驚愕のあまり、声も出ない。

刺客はゆっくりとした動作で踏み込み母の胸を刺し、別に慌てる風も無く悠然と振り返った。

そこには、尻餅をつき、いっぺんに二十も老いてしまったような師匠の顔があっただろう。

恐怖に目を見開き、血の気を失くした顔を引きつらせながら立ち上がろうとしてもがくのだが、腰が抜けてしまっているようで一向に立ち上がれそうに無いのである。

狂気の殺人者は薄笑いさえ浮かべながら、腰を落としざま師匠の頭めがけて振り下ろしたが、一度頭部に当たった長刀は刃筋が立っておらず、とても深くは切り込めそうにない。

そのため、凶器は左側頭部の肉を削ぎながら落下し、左肩の鎖骨に衝突して跳ね返った。

鈍い音が聞こえたところを見ると、脆くも鎖骨が折れてしまったものらしく、挙句に頭部付近からは既に大量の出血が始まってしまっている。

頭部と肩に強烈な打撃を受けた刀匠は、哀れにも自らの血の海の中に顔を埋(うず)めるようにして昏倒してしまったが、みどりと有紀子を伴った国王が帰館したのは、実にそのときのことであったらしい。

肝心の王宮の警護陣は、例によってドーナツ状の警護態勢をとっていたため、変事には全く気付くことは無い状況の中、庭前のポール際に着地した国王は、その直後に濃厚に血の匂いを嗅いだと言う。

豊富な実戦経験を持つ者として、瞬時に異変を察知したであろう。

即座に警護のものに「送信」しつつ、例の手法を以て瞬時に移動し、土足のまま廊下から踏み込んだ。

そこには、見るも無残な光景が広がっていた筈だ。

しかし、国王に驚いている暇は無かったであろう。

血刀を下げ、憎悪に目を血走らせた刺客が、なかなかの身ごなしで突きを入れて来たのだ。

だが、国王の並み外れた身体能力が瞬時に反応した。

右腰の山姥(やまんば)の柄(つか)には手も触れず、一瞬で相手の獲物をもぎ取って軽々と膝下に組み敷いていたのである。

そのまま膝に力を込めれば、相手の背骨を折ることは容易い。

個人としての若者が、一瞬その誘惑に駆られたことは確かだろう。

視界の中では、妻子はおろか、義父母や義兄までが血の海の中に沈んでいるのだ。

しかし、若者は思いとどまった。

若者が、一国の統治者だったからだ。

その身柄を飛び込んで来た甚三郎に任せ、必死に冷静さを装いながら、多数の医療用車両を瞬時にして庭先に運んだが、辛うじて一命を取り止めることを得たのは義兄一人だけだったのである。

若者は、凄惨な血溜まりの中で、妻子はもとより妻の両親まで失ってしまったことになる。

みどりなどは、あまりのことに茫然としてしまっており、立っているのもやっとと言うありさまで、その上幼い有紀子を伴っていることもあり、とりあえずその休息所も必要と言うことになり、大型のポッドを五台ほどまとめて配備することにした。

それ等は、優れたキャンピングカーの機能を持ち、かなりの大型水槽まで具えており、小人数でなら二三日は充分凌げるほどのもので、そのうちの一台がみどりたちの休息所に、その他の一台が公的な行在所(あんざいしょ)と定められた上、井上准将と三人の侍女が君側を固めた。

広々としたその庭には三十二騎の近衛軍が全て出揃い、国王と司令官の愛馬もその姿を見せており、その他目に映らぬ微細な警護陣に至っては無数と言って良い筈だ。

凶行現場には既に若衆宿の自警団が到着して、さまざまな証拠保全と捜査にあたっており、今後はその若衆宿が一切の審理を担うことになる。

無論、あとのことは官邸の京子に送信を以て命じてあり、充分な配慮を加えてくれることだろう。

但し、京子からの情報は、岡部は勿論、国井総理や新田にまで即座に伝わり、その全てを驚愕させてしまう筈だ。

何一つ公式発表の無いうちに、国王の妻子がその親族と共に暗殺されてしまったと言う情報だけが、まったく無遠慮に世界を駆け巡ってしまうに違いない。

統治者としての若者は、とりあえずこの地の若衆宿に被疑者の身柄を預け、捜査と審理を任せてみせるほかは無い。

何分にも、これだけの事件のことでもあり、世界世論の注目を浴びることは避けられず、ことは重大なのだ。

中でも、この秋津州が成文法を持たないことを以て、野蛮であると評する者が未だに跡を絶たないのである。

若者は常々、成文法を持たないからと言って、そのことが一般の国家より劣る理由とはならないことを、事実を以て示したいと思い続けて来た。

全て秋津州の慣習法に則り、公明正大な対応がなされることが、なおのこと望まれる所以なのだ。

その上、被疑者たる山内隆雄は日本国籍を持つ者とされており、秋津州の慣習法によれば、例え未決勾留期間であっても、その身柄はやがて国籍国である日本側の手に渡ることになる筈で、その勾留の場所は無論秋津州国内に限定され、なおかつその場所の範囲も若衆宿によって一定の制限が加えられることになるだろう。

しかも、その被疑者にとって明らかとされている罪状は、今のところ、凶器を以て国王に切りかかったと言う言わば殺人未遂罪だけであり、確たる証明が無い今、それ以外のことは不明と言うほかは無い。

確かに、国王が踏み込んだ時、血塗られた凶器を手にしていたのは山内隆雄と言う被疑者ではあったが、唯一生き残った正嘉氏が、とても口を利ける状態にはなかったからでもある。

詰まり、殆どのことが今後の捜査に俟たねばならないのだ。

天空にあるおふくろさまがとうに事態を把握して、東京の京子に改めて指示を出している筈で、既にドーナツ状の警備態勢も過去のものとなった今、王宮のそれも万全のものと見て良い。

母屋に隣接した別棟にも、さまざまな造作が加えられつつあり、二日もあれば御座の間ほかの用意も全て整う筈だが、それにしても、若者の蒙った衝撃は尋常一様のものでは無い。

一旦大型ポッドのソファに腰を落ち着けては見たものの、先ほどから蒼白な顔を上向けて茫然たる様子を見せており、自らが命じた警護態勢の不備に関して悔恨(かいこん)の念にかられるあまり、その心中では既に耐え難いほどの懊悩(おうのう)が始まってしまっていたのである。


真っ先に駆けつけた日本人は、田中盛重と秋元涼を帯同した相葉幸太郎と新田夫妻であったが、彼等の到着はあまりに早過ぎたかも知れない。

しかも彼等が特別に許されて目にした凶行現場は、その惨劇の跡も未だ生々しく、身重の菜穂子夫人(新田夫人)には刺激が強すぎたこともあったろう。

文字通り、卒倒してしまったのである。

何せ臨月がほど近い身でもあり、国王の心遣いもあって直ぐに帰され、危うく事なきを得たが、ポッドによるその帰途は秋元涼が付き添って万全を期さざるを得ない。

その惨劇は、誰にとってもそれほど無残なものだったのだ。

新田自身がとうに血相を変えてしまっており、庭先のポッドの中で改めて国王に対面したときには、口の中が粘りつき、満足な弔意など述べることも出来ない。

別のポッドで有紀子を寝かし付けて来たらしいみどりが、和服に割烹着姿でお傍にあり、甲斐甲斐しく湯茶の接待をしてくれていたが、目を合わせた瞬間、急に気が緩んだものと見え「なんで、なんでこんな・・・。」と言いながら、国王の膝に泣き伏してしまった。

若者は、大きな左手で優しくその背を撫ぜてやっているが、最も激しい衝撃を受けたのはほかならぬその若者自身であった筈だ。

傍目には、みどりの背を泰然と撫ぜているようにも見えただろうが、見直せば米神(こめかみ)のあたりが僅かに痙攣してしまっている。

その右手も腰の山姥の柄を握り締めながらやはり微かに震えており、気丈にもこちらの目をじっと見返して来てはいるが、真っ赤に染まったその目が全てを物語っていた。

若き統治者が、今、目の前で必死に耐えているのだ。

その若者は、若年とは言いながら新田にとってはまたと得難き友なのである。

隣では老練の相葉でさえ目を赤くしている上、その後ろに控える田中盛重などは既に声を上げて泣いてしまっており、もう、堪らなかったのだ。

情け無いことに、止めどなく涙が溢れて来てしまったのである。

思えば、この友の身の回りの世話をさせようと連れて来た妻がいきなり卒倒してしまい、已む無く帰す羽目になってしまった。

その上、秘書の涼もいないのだ。

代わって田中盛重が自ら雑用係りに任じ、こまごまとした御用を引き受ける旨を申し出たが、現実にはたいした用があるわけでは無い。

それでも田中は気持ちの問題だと言い張り、とうとうポッドの一つに強引に泊まり込むことになったが、その愛すべき一本気に付いては、かねて岡部大樹からも聞いていた通りだ。

あの岡部もこの男の稚気(ちき)を殊更愛していると見えて、出立にあたり特別の訓示を与え、折角行けることになったのだから、秋津州の地では是非とも二つのことを学んで来いと言ったらしい。

一つには「国家とは如何にあるべきか。」、そして二つには「漢(おとこ)とはどうあるべきか。」であり、かく言うこの日本では既に失われつつあるものだが、幸いにして秋津州にはそれが二つともにあると言ったと言うのである。

稚気溢れるこの若者は、この機に臨み国王の鬼気迫る振る舞いを見るに及んで、どうやら一際奮い立ってしまったに違いない。

一方の相葉にして見ても、無論、弔問と見舞いのつもりで駆けつけて来ているつもりなのだが、実際に現場に立って見るとその凄惨さは言葉を失ってしまうほどのものであった。

尋常ならざる事態を眼前にして、実際に言うべき言葉が見つからないのだ。

その点、国井も重大な関心を以て事態の推移を見詰めており、対策室の指揮官たる岡部に至っては、傍目にもそれと判るほどに血相を変えてしまっていると言う。

実質的な総理特使でもある相葉にして見れば、その政治的な立場から言ってもことは容易では無い。

被疑者が日本人である以上、その身柄に付いての処し方の問題もあり、当然その背後関係に関しても無関心ではいられないのである。

聞けば、被疑者を刀匠に紹介した者も日本人だと言うし、いざこうなって見ると、とんでもない背後関係が飛び出してくる可能性も無いでは無い。

何せ国王の妻子ばかりか、王妃の親族の悉くが奇禍に遭ってしまっており、ことがことだけに、日秋両国の繋がりにおいてその機微にも関わってくるほどのことなのである。

唯一生き残った王妃の兄は、一時は予断を許さないと思われたほどの重傷を負ってしまってはいたが、今では秋津州ビルの敷地内にある大規模病院において先進的な治療を受けつつあり、早ければ数日で話せるようになると囁かれてはいる。

無論、その証言はそれはそれで重大で無いことは無いが、状況から見て、あの犯行が、日本人山内隆雄の手によってなされたものであることだけは動かしようが無いだろう。

相葉の苦悩も、決して軽いものでは無かったのである。

尤も、一方の新田の心象はかなり違ったものであった。

一言で言えば、新田の場合は政治的な捉え方など成し難い精神状態に陥ってしまっており、その意味ではかえって想うところが少なくて済んだかもしれない。

何しろ、ひたすら若者の不運を思って胸を痛めてしまっており、殊に、常日頃頻繁に接触を重ねて来た王妃と真人の横死と言う現実には、自分自身が相当なショックを受けてしまっており、ただただその悲嘆が深まるばかりだったのである。

しかし、新田たちが現場に駆けつけたころには、ニュースは東京の首相官邸を発信源として世界中に伝播し始めていたが、秋津州の日は未だ暮れきってはいないのだ。


一方でタイラーが受けた第一報も、廻りまわってワシントンから齎されたものであり、職務上早速その事実確認を迫られ、下僚に命じて内務省に探りを入れさせながら、自ら女神さまに連絡を取ろうとしたが、どうやら同様の問い合わせが殺到しているらしく、通話中の信号音が鳴るばかりで一向に繋がらない。

ようやく繋がった電話も、ほんの僅かの通話だけで切れてしまうありさまだったが、それでも、この暗殺劇が現実のものであり、しかも王の妻子を含め四人もの犠牲者が出ていることだけは辛うじて確認が取れた。

少なくとも、王妃と幼い王子の両人が、共に命を落としたことには疑う余地は無さそうだ。

更に魔王の様子を尋ねようとしたが、唐突に通話が途絶え、途端に憤怒に燃える魔王の姿が圧倒的な迫力を以て胸を浸して来た。

それは、あの魔王が、髪の毛を逆立て地団駄を踏んで怒り狂っている姿であり、小心者は今更ながら胴震いが止まらない。

振り払っても振り払っても、怒髪天を衝く魔王が、今まさにその凄まじい怒りを解き放とうとしているイメージが襲って来てしまうのだ。

ことにあたって何よりも大切なことは、きたるべきガンマ線バーストに対抗する手段が、魔王の領土への避難以外に一つも見当たらないことなのだ。

今、その魔王を怒らせてしまった。

どう考えても激怒しているに違いない。

その怒りの矛先を想い、その結果の凄まじさを想ってしまえば、本国に残した一人息子の身の安全すら計り難いほどの心境なのである。

だが、タイラーにも任務と言うものがあり、そしてそれは我がステイツの国運を担うほどのものなのだ。

気を取り直し、そそくさと専用回線を以てワシントンに一報し、取るものも取りあえず王宮に向かうことにした。

それにしてもこの報せは、確実に世界を震撼させてしまっているだろう。

誰しもが魔王の心象を想い、そして人類の未来を想うのである。

自分にしても、秋津州の上空に異様な雰囲気を感じてしまっており、何かしら新たな舞台の幕開けを知らせるベルが耳の奥で鳴り響いたような気がして、又しても胴震いがして来た。

その演目が例えどのようなものであったにせよ、そのシナリオに人類の幸福な未来像が描かれていようとはとても思えない。

リムジンのハンドルを握ってくれているジムは、今も最も信頼する下僚であり続けてくれており、現在の特殊な情勢についても全てを知り得る立場にあるが、それだけに、なおさら容易ならざる状況に置かれていることを覚えるのだろう。

今もその横顔に格別の緊張感を漂わせており、想うのは祖国にある両親のことか、或いは又、近頃海都に呼び寄せた妻子のことであるに違いない。

自分にしても同様だ。

後部座席からフロントガラス越しに見る風景も、いよいよ夕闇が迫って来ているが、そのどれ一つをとっても、いつもの見慣れたものとはずいぶん違って見えてしまうのである。

通常の電話回線は異常な混雑振りを見せて殆ど繋がらず、自分の訪問に関しても、無論事前の許可など得ている筈も無く、このまますんなりと王宮に入れるとは思っても見ないが、この場合行くことこそが大切に思えて仕方が無い。

道々、相当の検問にかかるだろうと思っていたが、意外にもそうはならなかった。

しばらく片側三車線の堂々たるフリーウェイを拍子抜けするほど順調に走り、立体交差を一般道路に降りてほんの数分直進してから、特徴ある場所を左折した。

目指す王宮は、そこから一本道をまっすぐ二キロほど入ったところなのだが、いつも通りそこで停止を強いられてしまう。

左折したあたりは、両側の角地(かどち)が共に広々とした空き地となっており、外来の者にとっては、いざともなれば駐車場の代用となることで知られ、外交官や古手の報道陣の間では、しばしばパレス・パーキングなどと呼ばれている代物だ。

程よく整地された一郭には、たいていの場合漆黒の小型ポッドが数台待機しており、あとは小振りの建て屋がぽつりと立ち、昼夜ともに事務服姿の女性がほんの二三人いるだけでひっそりとしている。

王宮への訪問者は、誰しもが一旦この広場に入ってからこの建物の前に進み、そこで来意を告げる決まりであり、普段であっても事前の許可無く訪れた者は、全てここが終着点とならざるを得ない。

そこから先の王宮までの道は、大型バスがぎりぎりすれ違えるかどうかと言うほどの道幅でしか無く、挙句に細い畦道のほかには、一切交差する道路も無く、全くの一本道になっている。

途中広い路側帯が数箇所設けられているだけで、両側は畦道以外全て広々とした農地になっているため、正面の王宮までの道のりはまことに見通しが良い。

車を入れたパレス・パーキングは、予想通りかなりの先客で賑わってしまっており、合衆国大統領からの弔意を表すると言う重々しい来意を告げたにもかかわらず、予想通り女性係員の一人からそれ以上の前進は出来ないことを告げられ、訪問記録簿のようなものに署名するだけで、空しく引きかえさざるを得なかったのだ。

このあと続々と到着する車両もまた、同様の憂き目を見ることになるのは必至だろう。

何せ、各国代表部はもとより、膨大な数の報道陣が押し寄せる筈だ。

既に、報道機関の中継車両の姿も見えており、挙句に、いささか気分を害する光景にも出くわしてしまった。

見覚えのある女たちが先着していて、あろうことかパレス・パーキングに車を置いたまま、小型のポッドで王宮への道を鄭重に送られて行くところまで目にしてしまったのだ。

腹立たしいことに、それはモニカとタエコの二人連れであり、恐らく、己れたちが経営する酒場を休業してやってきたのだろうが、思えば合衆国大統領の使者に許されないことが、その女たちには軽々と許されているのである。

全く憤懣遣る方無いとはこのことであり、その憤りは帰りの車中でも絶えず燻り続けたほどだ。

出来ることなら、彼女達の帰路を捉え、魔王の様子を聞き出したいところだが、いきさつから言ってどうせまともな反応は返っては来るまい。

帰路の車中で女神さまに連絡が取れたことだけが唯一つの救いではあったが、内務省前のグラウンドに百人ほどの地元自警団が集結しているらしいことを除けば、新たな情報は一切齎されることは無く、まして、内務省からの公式発表に至っては未だに何も無いままなのだ。

帰り着いてからも、王家に加えられたテロ攻撃のニュースは、テロリストの正体が刀匠の内弟子であったことと、王家の蒙った被害に関してだけが繰り返し報じられるばかりで、最強の八咫烏の出方は勿論掴めない。

かつて被疑者に接触させていた女どもとも全く連絡が取れないまま、その夜のタイラーは遂に一睡も出来なかったのである。


一方、NBS支局長のビルは国王の途方も無い多忙振りに阻まれ、ここ数日、対面の機会すら得られずにいたところ、この日突然の悲報に接したのだ。

無論、ビッグニュースだ。

ビルは、その立場から言っても寝る間も無い夜が待っている筈であり、次席のジョンに至っては、既に腕まくり姿で盛んに檄を飛ばしており、フロア中が殺気立ってしまっている。

内務省前のグラウンドに多数の地元民が集結し、徒ならぬ勢いを示していると言う情報もあり、そちらにも中継車を出したばかりだ。

肝心の凶行現場の取材だけは今のところ手控えてはいるが、問題の若衆宿付近には様子を探らせるべく先発の者を走らせており、王妃の実兄が、瀕死の重傷を負って秋津州ビルの付属病院に担ぎ込まれたと言う情報まであって、ジョンの張り切りようも尋常ではない。

無論この事件を千載一遇の好機と捉えているからではあろうが、生憎(あいにく)こっちは、いつもと違って勃然たるジャーナリスト魂が少しも沸き上がって来ないのである。

気が付けば、心は悲しみに溢れてしまっており、胸に浮かんだ国王の顔が何故か焦点を結ばずぼやけてしまっている。

聞けば、あの高貴な香りを漂わせる王妃も、そして底抜けに愛らしい王子でさえ、もうこの世のものでは無いと言うのだ。

「ちょっと、出て来るわ。」

ぼそりと言った。

「どちらまで?」

ジョンが振り向きざまに聞いてきた。

「王宮だ。」

「待ってました。おーい、キャメラとアシスト二名、支局長にお供しろお。」

ジョンは、その言葉通り待っていたのだろう。

無論、こっちの特殊な人脈を利した直撃取材をである。

何せ、内務省の最上階だろうが、王宮だろうが、ほとんどフリーパスのジャーナリストなど世界中捜しても他にいないのだ。

事件発生から未だ僅かしか経っていない上に、発生現場が王宮そのものなのである。

本来なら、それこそビッグチャンスだ。

しかし、気が乗らない。

一応礼儀だから電話で事前連絡を入れようとしたが、行政側も王家側もどこへ掛けても繋がらず、已む無くそのまま出発することにした。

ジョンの期待に満ちた視線が熱気を帯びてあとを追って来る気配は感じるが、こっちは未だ踏ん切りがつかないのである。

途中で花屋に寄っただけで、車はいつもの道を快調に走り、無情にもあっという間にパレス・パーキングに着いてしまった。

今しがたタイラーが空しく帰ったばかりであることなど、無論ビルは知らない。

かなりの高空に、他社のものも含め報道用のSS六が相当数浮かんでいる筈なのだが、例によって全く無音のため、その存在も殆ど気にならない程度のものだ。

広大なパレス・パーキングのそちこちにも数台の中継車両が見えたが、特別規制されてはいないようだ。

車から降りて、いつものオモチャ箱のような建物の前で顔馴染みの女性係員をつかまえて来意を告げると、さすがに一分ほど待たされたが「お通り下さい。」とのことだ。

無論、来意は取材である。

しかし、未だ心がさ迷ってしまっている。

幼い王子の無邪気な笑顔が眼に浮かんでくるのだ。

漆黒のポッドが目の前に来て、初めて心が決まったような気がした。

相手は、やはり特別の友人であった。

このようなときでさえ、自分の取材を受け入れてくれているのだ。

車から花束だけを取り、キャメラやアシストの者たちには、ここで待つように命じ、一人ポッドに乗り込んだ。

みんな驚いていたようだったが、強い視線を送ることで決意を伝えた。

数分後に王宮の庭の一郭でポッドを降りると、あとはこれも見慣れた侍女の一人が先に立ち、大型ポッドの方に導かれたが、未だ足元が不自由になるほどには暮れ切ってはいないのである。

勝手知ったる王宮の外庭は二千坪ほどもあろうか、思いなし悲しみに沈んでいるように感じてしまう。

見渡すと、夕暮れの中、五台の大型ポッドのほかにも、今自分が乗って来たタイプのものが数台目に入った。

警備人にしても相当数のものが動員されているに違いない。

後方には騎馬の近衛兵が厳しく陣を敷いており、目の前の竹垣の向こうにも数人の立ち番がいる気配だ。

その竹垣の向こうがそこそこの中庭になっており、枝折戸を抜ければ問題の十畳間の縁先に出られる。

つかつかと歩み寄り、侍女の視線を背にしたまま勝手に進み、枝折戸を抜け、沓脱ぎの脇に立って廊下の片隅にそっと花束を置いた。

目の前の障子は固く閉ざされており、部屋には灯りが灯ってはいたが、無論中の様子は判らない。

この場所でほんの数時間前に斃れた人々を想い、深々と頭(こうべ)を垂れながら、心から哀悼の意を捧げてから重く踵(きびす)を返した。

再び枝折戸を抜けて広々とした外庭に出てみると、視界の先に、別の侍女に案内されてポッドに向かう見覚えのある後ろ姿が見えたが、どうやらモニカたちらしい。

取るものも取りあえず、早々と弔問に訪れ、今帰るところなのだろう。

流石の女どもも、とても長居の出来るムードでは無かったに違いない。

気配に気付いたか二人共に振り返ったが、タエコの方などは子供のように泣きべそをかいてしまっていた。

やがて導かれるままに王の前に出てみると、意外にも見慣れた先客がいた。

和服に割烹着姿のみどりが王のソファに並んで座り、今しも塩結びを握っているところだったらしく、こちらが入って行くと軽く会釈を返しながらすっと立って行く。

湯茶の支度をしてくれる気なのだろう。

若者は、蒼白の顔いっぱいに苦渋の色を貼り付けたまま、凍りついたように凝然としており、その視線の先は先ほどから虚空をさ迷っていたようだが、こちらが目の前に立つとその視線が頼りなげに動いた。

そこには、いつもの機知に富んだ溌剌とした若者の姿は既に無く、数多くの対面の機会を持つビルでさえ、若者のこんな表情など見たことも無かったのである。

こちらの胸まで潰れそうな気がした。

「謹んで、ご哀悼申し上げます。」

胸の中で小さく呟いて深々と頭(こうべ)を垂れたが、その若者は僅かに頷いてくれただけであったのだ。

 ◆ 目次ページに戻る

  1. 2007/09/05(水) 09:06:36|
  2. 妄想小説 主権国家|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:2

自立国家の建設 095

 ◆ 目次ページに戻る

さて、一夜明けて飛び交った情報は、皮肉にも一部の人々にとっては心の安まるものであったかも知れない。

何と、あの若者が早くも通常の作業に戻り、とうに丹波へ飛び立ったと言うのだ。

しかも、既に十数回の余も往復していると聞き、新田にしても、さまざまに思い惑うところが無かったとは言えない。

思えば今日のこの日も惑星間移送予定が目白押しになっており、その全ては自分がセットしたものばかりなのである。

若者の座乗機と連携しながら今もその微調整を行っているところだが、あの若者は一睡も出来ぬままその任務に就いたばかりか、あれ以来僅かな湯茶以外何一つ口にしてはいないらしい。

立川みどりが有紀子を連れて付き添ってくれていると言うが、昨日の様子を見る限り、今度ばかりはこの付き添いを無意味だと言うものはいないだろう。

尤も、もう一人自ら望んで付いて行ったと言う田中盛重の方は、恐らく足手纏いにしかならないだろうが、ともかく凛々と張り切ってしまっているその顔が目に浮かぶようだ。

そして又、テロリストが供述し始めたと言う意外な事実にも充分驚かされることになった。

何と、被疑者は朝鮮共和国の国籍を持ち、その本名も朴清源だと名乗ったばかりか、その犯行まで全て認めていると言う。

すなわち、自らが被害者全員の殺害を企て、かつ実行に移したことをである。

しかも、隠すどころか、むしろ昂然と眉を上げてその正当性をすら主張しているらしい。

その供述によれば、問題の日本人山内隆雄とは四年前に北欧の某国において接触し、その体格風貌が自分に似通っていた上に天涯孤独の身であることを知り、のちにその頭部を鈍器で殴打して殺し、そのまま成り代わったと言うのだ。

とにかく典型的な成りすましなのである。

被疑者自身、かつて日本語を学んだ経験もあり、元々多少の会話能力を持っていた上、この山内からも真剣に学んだと言うが、日本語の学習に名を借りて、山内の身上調査をも意図していたことは確かだろう。

また、被疑者自身の供述による犯行の動機に付いてはこうだ。

そもそも現在二十六歳だと言う被疑者は、半島南部のごくありふれた家庭に生まれ育ち、大韓民国の国民としてその少年時代を過ごしたが、周囲の影響もあってかなりの反日少年だったことに加え、人生を左右するほどの出来事を経験したことが、更にその傾向に拍車を掛けたらしい。

とにかく、その周囲でさまざまのことが群がり起きたことは事実だろう。

現に被疑者は、秋津州戦争の勃発によって祖国大韓民国の平和が破れ、竹島も奪われた挙句、その祖国自体が名実共に滅亡して朝鮮共和国に吸収されてしまったと嘆いており、竹島騒動では当時海軍軍人として出動していた兄まで失い、これらの出来事の殆どが秋津州のなせる業であり、秋津州王家こそ不倶戴天の仇であるとして、虎視眈々と報復の機会を狙っていたと供述していると言う。

聞けば聞くほど恐ろしいほどの執念であり、自分の命などとうに捨てて掛かっていると言い放ち、あまつさえ国王を打ち洩らしたことだけが唯一の心残りだと嘯(うそぶ)くありさまで、その言い草を聞けばまさに狂気の沙汰と言うほかは無いが、その粘着性に富んだ性行こそが、その作業に、これほどまでに高い貫徹力を与えてしまったことは確かだろう。

また、王宮を単独で襲撃するなど不可能とは思わなかったのかと尋ねられると、王宮には過去何度も出入りする機会があり、その警備体制に致命的な欠陥があることも熟知しており、少なくとも遠く離れた警護陣には全く気取られること無く、し遂げることが可能だと思ったと言う。

加えて、帰館の際の王は、常に警護の者を一人も帯同していないことも承知しており、今回の連れにしても中年の婦人と幼い女児だけであることも知っていたらしい。

無論、その連れも全て皆殺しにするつもりでおり、翌日まで異変に気付かれないようにするために、障子や廊下を血で汚すことを避け、あえて王が部屋の中に踏み込んで来るのを待ったと言うが、仮に首尾良く王を倒したとしても、みどりや有紀子は未だ外庭であり、二時間もすれば国旗降納の時刻が来るのである。

彼女たちを外庭で仕留めれば、その犯行の跡は確実に儀仗兵の目に留まってしまう筈だが、そのみどり達まで、わざわざ屋内に引き込んでから殺害するつもりだったのかまでは言及していないと言う。

いずれにしても、いざ逃走と言う場面にあたっては、秋津州軍の持つ特殊な能力については知ってか知らずか、ほとんど気にしていた気配が無い。

内務省からの連絡で国王の帰館予定を耳にして、わざわざその直前を狙ったのにもそれなりの理由があり、最も憎んでいる国王に、犯行直後の生々しい光景を見せ付けてやりたかったらしく、それを見て動転しているところを襲えば必ず成功すると思ったとも言う。

無論、国王の持つ並外れた戦闘能力に関しては全く知らなかったらしい。

また、当初の心積もりでは、真人王子を生きているかのように装い、それを人質にとってから国王を刺すつもりだったものが、突然現場に踏み込まれたために予定が狂ったと言って口惜しがっていると言う。

現場から三キロほどのところに二十四時間営業のレストラン兼生活用品店があって、かなりの繁盛振りを見せているのだが、調べによると、そのパーキングに別に調達した車を止めており、トランクには着替えは勿論、多少の旅支度が積み込まれていたことから、犯行後は畦道(あぜみち)伝いにそこまで逃走するつもりだったようだ。

その後は、日本への船便を使って正規に出国するつもりだったと供述しており、豊富な逃走資金の用意があったにしても、どう考えても杜撰(ずさん)極まりない。

だが、秋津州の優れた諜報能力に付いて認識出来ていなかった以上、逃げおおせると思っていた可能性も捨て切れないと言う。


ことにあたって秋津州側の対応は極めて冷静だったと言って良い。

実際、東京の女帝はフル稼働で情報収集にあたっており、天空の基地には大量のデータが送られつつある。

被疑者の供述は、自分を刀匠に紹介してくれるよう依頼した女性は、自分の真の意図に関しては何一つ関知する事無く、単に自分の刀匠志望と言う物言いを信じて紹介の労をとってくれただけだとして、全て自らの単独犯行である旨を主張しているが、問題の女性当人はもとより、その配偶者の周辺にまで隈なく触手を張り付けてあり、それこそ夫婦の会話まで全て聞き取ってしまっているほどだ。

無論、その「調査活動」は、被疑者が刀匠のもとに弟子入りを志願した直後から始まっており、その結果が、被疑者の供述に少なからず信憑性を与えてしまっていることも否めない。

何しろ、その当初においては、新婚間も無いその夫婦の会話にも、被疑者に関する話柄はほとんど登場することが無く、稀に登場しても、単に一人の日本人青年を自分たちの紹介により、無事に弟子入りさせることに成功したこと以外特段の話題にはなっておらず、その女性本人はもとより、配偶者にも特別不審な点は見当たらなかったのである。

また、調査の結果、その新妻は少なくとも独身時代には、被疑者と個人的に交際があったことが窺われるのだが、そのことを夫が全く知らなかったとは考え難い状況が一方にある。

第一、夫の方から見れば、その「紹介の依頼」一つとっても、新妻を通して寄せられたものだった筈で、その上、独身時代の妻が被疑者と二人で食事をしているところに行き合わせたと言う知人がおり、夫は自分の知人でもあるその目撃者から直接それを聞いてもいる。

詰まり、夫は、少なくとも妻の過去の男性関係と言う視点では、二人の男女関係を充分疑っていた筈であり、それでなおその夫は、被疑者を新妻の友人であるとして、努めて積極的に紹介の労をとっているのである。

その点では、最初から夫婦二人の協同作業であったとしか思えない。

しかし、だからと言ってこの夫婦が、テロリストの王家襲撃の意図まで承知していたとは言い切れず、その実質的なインセンティブの中身まではさておき、被疑者の言い分を信じて単に紹介しただけであったかも知れないのだ。

この変事の直後からは、なおのこと水も洩らさぬ諜報網を布いているにもかかわらず、彼等が犯行そのものに加担していたとするような新事実には、未だに出会ってはいないからだ。

その夫婦は昨夜の時点でそのニュースを知り、拘束された被疑者が刀匠の弟子だったとされ、それが自分たちの紹介した人物であるらしいことにひどく驚いていたことは確かで、その上、翌日になって聞こえて来た被疑者の本名に関しても全く知らなかった様子から見ても、その凶悪な犯行計画を事前に知っていたとは思えない。

状況は、その夫婦が、被疑者の刀匠志望と言う夢の実現に単に手を貸しただけであることを、いよいよ強く浮かび上がらせて来るばかりなのだ。

まして、その後の彼等は、その襲撃に喝采を送るどころか、王家の蒙った突然の災難に対してはむしろ同情的ですらあり、殊に新妻に至っては、最初の誕生日も迎えることなく世を去った幼子の悲運に対して、涙する場面まであったほどだ。

結局のところ、この夫婦に、秋津州王家に対する特別の悪感情や攻撃の意図などは、まるで感じられないのである。

無論、この夫婦に関しては他にもさまざまなデータがある。

安田一夫と言う四十五歳の男と、それに引き比べて未だ二十歳でしか無い女とでは、夫婦としての組み合わせから言えば、もうそれだけで奇妙と言え無くもないが、そこにはそれなりの経緯があって当然だろう。

そもそも、一夫が経営する小振りのスーパーはその親から受け継いだものだが、その経営状態にしてもあまり捗々(はかばか)しいものとは言い難く、その上、若い後妻を迎えるにあたっては、相当な出費があったろうことも想像に難くない。

何せ、新妻となった律子(りつこ)は相当な美形で、当時ホステスとして勤めていた店でもかなりの客足がついていたことも判っており、これと言った取り柄があるわけでも無く、最早中年と言って良い一夫が口説き落とすには、金銭的にもかなりの奮闘振りが求められた筈だ。

もし、律子と被疑者との間に肉体関係があったとすれば、彼女がそこに勤めていた頃のことではあろうが、その件にしても憶測による証言があるだけで、無論確証があるわけではない。

こっちの諜報網が彼女を捉えたのは、被疑者が秋津州入りしたあとのことだが、少なくともその後の二人が一度も接触しなかったことだけは確かなのだ。

また、当時日本人山内隆雄を名乗っていた被疑者が天涯孤独の身であることを知った律子が、自らの身の上にも重ね合わせ、共感を覚えたのではないかとする証言も少なく無い。

事実、律子自身も、山内と同様全くの一人ぼっちだったからだ。

聞けば、その女は真実哀しい過去を持ち、それが仕事柄絶好の身の上話になる筈でありながら、奇妙なことに決してそうはしなかったと言うところを見ても、軽々しく口にする気にはなれないほどの辛酸を嘗め尽くして来たことだけは確かなのだろう。

事実、幼くして父を失い、二人きりの母子家庭がお定まりの生活苦にあえぎ続け、高校を一年でやめざるを得なかったのも母が急逝したからであり、被疑者と律子が、天涯孤独と言う共通項を以て、急速に距離を縮めて行ったとしても不思議は無い。

また、当時無職の筈の被疑者が年に似合わず金離れが良かったことを捉え、殊更悪し様に言う例が目立つが、証言者の中には律子に入れ上げていた者が少なくなく、中でも望月と言う男などは大分貢がされた口のようで、その口に掛かれば、その美貌のホステスは、金のためなら親でも殺しかねない鬼女だと言うことになってしまい、今となっては彼女に対して憎悪の念すら抱いている感がある。

結局散々に貢がされた挙句、とうとう目的を果たせなかったこともあってのことだろうが、その悪罵は止め処なく続き、しまいにはこおろぎと言う昆虫は卵管が異常に長いのだと言い出す始末で、異常に発達した生殖器を利して、世のオトコどもを片っ端から食い物にしている女だとでも言いたいのだろう。

いずれにしても、興梠と言う一人のホステスを薄幸の佳人に見立て、数多くの男性客が群がったことだけは事実で、詰まりは、彼女がそれほどまでの美女だったことを如実に物語っており、被疑者自身が未だに魅かれていたとしても不思議は無い。

現に天空に送られたデータから見ても、百六十五センチほどの身長と比較的小作りの顔を持ち、胸のあたりは勿論、脚部の形状が又素晴らしいものであり、その上、くっきりとした二重まぶたに睫毛がそよぐほどに長く、引き込まれるような黒い瞳が一際鮮やかで、それはまさに明眸皓歯と言うに相応しい。

数多くの証言からも、優れて色白の美貌と日本人離れしたプロポーションの持主であることが色濃く浮かび上がって来ており、証言者の一人に至っては、これほどの美女が世に知られることも無く、市井に埋もれていること自体がいまどき奇跡に近いと語り、いわゆる芸能界入りすれば、その美貌だけで充分通用する筈だと力説して已まないほどだったのである。

一方、刀剣愛好家としての夫についてもさまざまなデータがある。

それによれば、夫、一夫が所持する日本刀は今ではほんの僅かのものだが、そのいずれもがごく安価な現代刀ばかりで、久我正嘉と言う刀匠に作刀を依頼した二振りだけが、辛うじて多少の流通性を見込めるもののようだ。

但し、秋津州の刀匠に二度にわたって作刀を依頼し、その縁をつてに弟子を紹介しようとしていた頃は、そこそこの市場価値を持つものも所持していた事実があり、そのことこそが女帝の目を著しく曇らせてしまった理由の一つでもある。

しかも、その刀にしてもつい最近になって手放してしまっており、挙句に久我正嘉作の二振りまで売りに出している上、その他の安物についても全て売り払おうとしている気配が濃い。

詰まり、この男の刀剣愛好家と言う看板は見せ掛けであったことになり、証拠こそ無いが、これほど手の込んだ「仕込み」を行った以上、この夫婦に作為が無かったとは言えない筈だ。

ただ、二人には政治的若しくは思想的な背景は全く感じられず、そうである以上、全てのインセンティブの元を辿って行けば、結局金銭か脅迫か、或いはまたその両方かに行き着かざるを得ない。

結局二人の作為の終着点は、凶悪なテロリストをそうとは知らず、秋津州の刀匠に紹介することのみに尽きており、手の込んだ「仕込み」の実行資金と幾ばくかの報酬が、テロリストから支払われたものと見るのが自然だろう。

尤も、今後その事実を暴いてみたところで、税務処理上のあれこれを除けば、それが果たして日本国内で犯罪の構成要件となり得るかは大いに疑問だ。


十一月二十三日 秋津州時間午前十一時零分 王と女帝との通信。

現在の女帝は無論官邸の対策室にいるが、一方の王はインド中部において、相当の人員と機材を伴い今しも丹波に向けて旅立つ寸前であった。

その地では急ごしらえの資材集積所として、十六ヘクタールほどの地表がコンクリートで舗装してあり、その中心部がサッカーのピッチより広いサイズでグリーンに染められ、残りの外側部分は全て真っ赤に塗装されていた。

どうやらグリーンのエリアに置かれたモノだけが、移送の対象と定められているらしく、そこには既にさまざまな機材と多くの人員の姿があり、整列した彼等の全てがビニールの雨合羽のようなものを着用していることが、移送先が現在荒天であることをも窺わせてくれている。

その人員と機材は、当然インド政府が用意したものであり、その移送先は言うまでも無く丹波のインド領と言うことになるのだろう。

上空には数機のSS六が浮かび、その中の一機にはみどりや有紀子、それに田中盛重を伴った国王が座乗している。

「陛下、恐れ入りますが。」

特殊な通信は微細なトラフィックを通り、今しも若者の受信用ポートに届いたことになる。

一旦旅立ってしまえば、地球との通信は全く途絶してしまうため、おふくろさまが京子を通じて何やら指示を仰ごうとしているところなのだ。

「うむ。」

「被疑者の供述内容につきましては今朝ほどご報告申し上げましたが、その処置につきましては未だにお指図を頂戴してはおりません。」

「・・・。」

「お指図を頂きとう存じます。」

その意思を聞いておかなければ、現地の若衆宿に指令を発することが出来ないのである。

「・・・。」

「通常の対応でよろしゅうございましょうか?」

「うむ。」

「紹介者の夫婦につきましては、いかが取り計らいましょう?」

「・・・。」

「されば、お任せいただけましょうか?」

「うむ。」

「承知致しました。それと、先ほど、国井さんと岡部さんが弔問に見えたようでございます。」

二人共、例のクーリエ便を用いてひっそりと訪れ、王宮において献花の上祈りを捧げて行ったと言う。

「あ、ご報告が遅れましたが、陛下からの贈り物として、ビルの弔問時の映像をNBS支局長宛てにお届けしておきましたが。」

事後報告として、一枚の画像データが送られて来た。

それは、ビル自身が沓脱ぎ石の傍らで献花ののち茫然と立ち尽くす姿を後方から捉えたもので、その正面には問題の十畳間の障子が夕闇に明々(あかあか)と浮かんでいる構図である。

少なくともそれは、次席のジョンなどが見れば大喜びしてしまうものであったろう。

なにしろ、事件当日の現場映像であり、メディアにとっては言うまでも無く垂涎の一枚になる筈で、それもこれも、天空にある副司令官の配慮から出たものであったのだ。

「うむ。」

「それでは、道中くれぐれもお気を付けあそばしますよう。」

女帝は、遂に、はきとした指示を受けることは出来なかったのだが、代わって、天空の「おふくろさま」から、新たな指示を受けることになる。

無論、その人工知能に感情や感傷などは無い。


また、昨夜来土竜庵と官邸との間では、秋津州問題についてもさまざまなやりとりがなされているが、現状では全て静観するより他に手が無いのだ。

どうすることも出来ないのである。

その上、天皇皇后両陛下がたまたま欧州各国を歴訪中のこともあり、その公式日程と両陛下ご自身のご希望との兼ね合いもあって、相当切ない想いをしている事務方も少なく無いのだ。

まして、肝心の秋津州国王自身が、惨劇の翌朝から惑星間移送と言う極めてパブリックな務めを果たし続けており、今後においてもほとんど席の暖まる暇も無いことが目に見えている。

その移送作業の日程にしても全て土竜庵でシフトを組んでいる以上、そのスケジュールの凄まじさは日本側にも判りすぎるほどに判っていることなのだ。

今も、各国から殺到する移送願いが容赦なく積み上がって来ており、それが人類にとって他に代えがたい貴重な作業だとは言いながら、新田にして見れば、時がときだけに若者の精神状態にも当然配慮せざるを得ない。

ささくれ立ってしまった若者の心を少しでも安らげるためには、みどりと有紀子の存在は一際重要なファクターと見ざるを得ないが、かと言ってこのままでは、みどりから猛烈な抗議が出て来るのも時間の問題だろう。

さきほど東京の女帝から入った情報によれば、その女帝からの語り掛けに対してさえ、あの若者はほとんど口も利かないと言うのだ。

新田の見るところ、その若者はひたすら私憤を押し殺し、ただただ公共の福祉のために懸命に働こうとするあまり、そのストレスは既に耐えがたいまでに高まってしまっている筈だ。


さて、この時点では、秋津州からの公式発表こそなされてはいないが、外事部を通して朝鮮共和国の代表部にだけは直接の通告がなされていた。

朴清源と名乗る一人の朝鮮共和国人の身柄を、犯罪の容疑ありとして拘束したことをである。

無論、被疑者自身の申し立てによって、その国籍国がその国だとされていたからに他ならない。

その通告には、被疑者の顔写真はもとより、供述通りの現住所(無論朝鮮共和国内の)や生年月日などのデータを含んでおり、少なくともそれは、朴清源と言う一個人を特定するにあたっては不足の無いものであっただろう。

何しろ、女帝の触手が即座に反応して、その住所に同一の名前と生年月日を持つ人物がかつて居住していたことはもとより、その風貌一つとっても、被疑者のものとかなり似通っていることも確認済みなのだ。

さらに、被疑者が供述している山内の死体遺棄現場にも、その国(北欧)の当局に公式に伝えた上で、その捜査に積極的に手を貸して、供述通りの場所からそれらしい遺骸を発見するに至っている。

まして、その遺骸にはこれまた供述通りに頭蓋骨に陥没痕があり、それは紛れも無く鈍器で殴打されて出来たものと思われる上に、山内が年少時に負った足の骨折痕の位置まで一致してしまっており、その遺骸が山内少年のものであることを大声で叫んで已まないのである。

何よりも被疑者本人には、当該箇所に骨折痕が無いことが確認されており、取りも直さず今次の変事における被疑者が、日本人山内隆雄で無いことだけは既に証明されていると言って良い。

したがって、秋津州側は有り余るほどの隠し球を懐に入れたまま、朝鮮共和国側に通告したことになるのだ。

然るに、秋津州ビルに拠点を構える朝鮮共和国代表部は必要以上に鋭く反応した。

そのような「国民」は、我が国には存在しないと言うのだ。

秋津州の外事部は、その回答が国家の意思として真正なものである証(あかし)に、国家としての公文を要求し程なくそれを入手した。

当然であったろう。

それでなくとも、その国の主張はその時々で千変万化して常に定まるところが無いのだ。

何せ二国間で取り結んだ堂々たる国際条約ですら、相手国の弱腰を見れば平然と無視しようとする者たちなのである。

だが、今次においては、一方の当事国は最強の八咫烏だ。

自侭な変更など許す筈も無く、そうである以上、少なくともこの件に限っては、朝鮮共和国と言う国家の意思が対外的に確定したものと言って良い。

言い換えれば、この瞬間に、被疑者はその祖国からも見捨てられ、無国籍者の身に転落してしまったことになる。

秋津州にとって、無国籍者による犯罪の摘発は初めてのことでもあり、その取り扱いには特段の注目を浴びるのも当然で、メディアの中には、どうせ相手は朝鮮共和国のことであり、直ぐにも主張を変えるに違いないとするものも少なく無い。

ところが、豈はからんやその国は、その公文の内容を、極彩色の絵の具を以て更に塗り重ねると言う暴挙に出て、一挙に世界の耳目を集めてしまうことになる。

何と呆れ果てたことに、朝鮮共和国の方から秋津州に対する非難声明を大声で発してしまうのである。

それも、国営放送の画面を通じて白馬王子本人が、その肉声を以て叫んでしまったことが更に重大であったろう。

その独裁者は、今次のテロの被疑者は朝鮮共和国人などでは無く、全て我が国と我が民族を貶める為のプロパガンダであると強調し、全ては秋津州側の謀略だと言ってのけたのだ。

朝鮮共和国は謀略戦を仕掛けられた被害者だと叫んでいることになり、その論法で行けば秋津州は否応無く加害者の席に着かざるを得ず、どう見ても白馬王子の過剰反応と言うほかは無い。

現実の秋津州側が、あくまで朴清源と言う一個人の犯行として扱おうとしているにもかかわらず、それをわざわざ国際紛争のタネに昇格させてしまったようなものであり、殊にワシントンなどは、その声明を撤回させようと必死になったことは確かだ。

その声明の齎すものが、合衆国の利益に繋がることは全く無いからだ。

どう考えても、それによってその国の不安定材料は増すばかりであり、巨大な対朝債権を持つ米国系企業がある以上、ワシントンにとっては利益どころか、大打撃になってしまう恐れが高いのだが、無論、ワシントンが何を言おうが、白馬王子さまが耳を貸す筈も無い。

なお、事件発生が二十二日で、白馬王子によるこの秋津州非難声明が発せられたのが二十四日の昼ごろのことであり、妻子を殺されて怒りに燃えている秋津州国王に向かって、あのブラディ・キムがまともに吠え掛かったことになる。

世界に緊張が走ったのも当然のことだったろう。

剛強を以て鳴るあの国王が、黙っている筈が無いと見る向きが少なくないのだ。

もともと悪材料に溢れていたその国の経済は一気に不安定化して、急激な資本逃避が発生してしまうと叫ぶ者が増えた。

いや、その程度のことで済む筈が無いと言う者もいる。

近日中にも秋津州側から最後通牒が発せられ、戦争そのものが始まってしまうと言うのだ。

無論、朝鮮共和国側に勝ち目は無い。

それどころか、勝負にも何もならないだろうと言い、恐らく、十五分もあれば半島全域の完全占領が成ってしまうだろうとまで言い騒ぐのである。


問題の秋津州非難声明が発せられた丁度その日の夕刻のことだが、東京霞ヶ関の弁護士会館において注目すべき記者発表が行われ、メディア側の反応にも頗る大きなものがあり、会場は非常な熱気に包まれていたと言う。

雛壇には十人もの弁護士が顔を揃え、彼等がそこで発表した話柄がときにあたって殊更注目を浴びたのも無理は無い。

何せ、現在最も耳目を集めている秋津州事件にあたり、その被疑者に対する支援と弁護活動を行うと言うものだったからだ。

各マスコミに事前に届いた趣意書によれば、発起人代表の増田義男(よしお)を始め、いずれもが人権派で名を売った弁護士ばかりであり、全員が無報酬も厭わず活動すると標榜しており、被疑者の基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを以てその行動目的としていると言い、既に現地の若衆宿ばかりか被疑者本人の了承まで得ていると言う。

殊に朴清源が無国籍者と成り果て、何れの国家からも保護を受けることが出来なくなった今、その人権は自分たちの手を以て守るほかは無いと言う決意を示し、その意気は頗る軒昂たるものがあったのである。

一つには、調査の結果、二千四年の建国以来、その国では死刑執行の前例が無いことを強調した上、不幸にしてその国は未だに成文法を持たず、事件の被害者の中に王族が含まれることを理由に、なおのこと恣意的な審理がなされる可能性があることを心から憂えるとしていた。

尤も、この弁護士グループは従来から死刑制度の廃絶を謳って来ている者ばかりであり、察するに、秋津州の事件においても、被疑者が死刑判決を受けることに異を唱えようとしていると見られ、その上、その地には拘置所はおろか監獄すら無いことから、被疑者の身柄が過酷な環境に置かれている可能性も否定出来ないとして、そのあたりにも重大な関心を以てことにあたる覚悟だと強調して見せた。

その口振りでは、秋津州国王が憤激のあまり、被疑者に対し、惨酷な復仇的拷問を加えるのではないかとまで匂わせていたのである。


十一月二十五日、すなわちブラディ・キムの秋津州非難声明が出た次の日のことであったが、今次の変事に関する発表が内務省からようやくなされることになった。

その発表によれば、秋津州側はこれに関して政治的な捉え方は一切しておらず、彼の国の独裁者が肉声を以て発した非難声明にも一切触れられることは無く、今次の事件が被疑者による個人的なテロ攻撃であったことを改めて断言した上、被疑者が無国籍者であったことにも触れ、言わば身元引受人となるべき国家が存在しない以上、以後対外的な発表はなされない見通しである旨を宣言した。

当然のことであったろう。

少なくとも当人が、身分を偽ってまで、おのれの強い意思を以て入国して来たことが明らかである以上、その無国籍者の処分に関して、その方法が著しく人道に反してでもいない限り、如何なる国であろうと、その国籍国でもない者が口を挟む資格は無い筈だ。

その上、「全て、秋津州の法に則り、粛々と審理が尽くされるものと信じている。」として、秋津州の法が成文法であろうと無かろうと法であることに変わりは無いことと同時に、国家権力の介入が控えられる見通しをも内外に強く印象付けたのである。

言い換えれば、当該地域の若衆宿が独立してその審理に任ずることを、秋津州の国権が確固たる意思を以て宣言したに等しい。

なお、この犯行によって落命した者たちの遺体は既に荼毘に付されたが、秋津州王家としては、当分の間葬儀の執行を見合わせることに決したと言う。

また、病床にある久我正嘉氏の目撃証言が被疑者の供述とも概ね合致しているとしたことによって、全てが朴清源の単独犯行であることを強く想起させたと言って良い。

自然、被疑者を刀匠に紹介したとされる日本人夫婦や中国籍や米国籍を持つ艶麗な婦人たちに関する質問が殺到したが、それには一切の応答は無く、その後いよいよ興味本位な報道が増えて行く。

一方で、彼女たちは残らず若衆宿の事情聴取を受けた上で、その全てが帰国の途に就いたと言う声が出始めたが、少なくとも朴清源に群がったとされる女性たちが、早々と顔写真まで晒されてしまったことは確かであり、その結果、その手のオンナとして言わば有名人になってしまったことにより、今後の「活動」には適さない存在になってしまったとも囁かれた。

無論、日本のメディアの目は揃って安田夫妻に注がれたが、彼等夫婦が、昨今最もセンセーショナルなこの事件において重要な役回りを演じてしまった以上、それも如何ともし難いことではあったろう。

「スーパーヤスダ」には相当数のメディアが殺到し始めており、殊に美貌の若妻には数多くのカメラが向けられ、お定まりのワイドショーなどでは第一級の食材となりつつある。

メディアにとって、「美人女子大生」とか「美人看護士」とか言うネーミングは、対象が女性でありさえすれば、それだけで常に自動的についてまわる傾向があるが、今回の対象は紛れも無く本物の「美女」なのである。

それだけでも、放って置く筈が無い。

彼等「夫婦」が未だに婚姻の手続きを済ませていないことまで、お節介者の手によって早々と発掘されてしまい、「興梠」律子宛ての取材の申し込みは引きも切らない。

無論、彼女が興味本位な取材などに応じる筈も無かったが、簡単に諦めてくれるような連中ではないため、スーパーヤスダの周囲は常に騒然としている。

たかだか十台も入れば満車となってしまう駐車場は常に報道関係の車で溢れ、自転車置き場まで渋滞する始末で、店に足を運ぶ者には絶えずカメラとマイクが付き纏い、群れ集う野次馬どもはさて置き、一般客にとっては好ましからざる環境が形成されてしまっており、当然店の売り上げは減退し経営は圧迫される一方だろう。

内部事情を良く知ると言う者が報道画面に数多く登場し、口々に無責任な発言を繰り返しており、律子のホステス時代のあれこれについても無遠慮な報道が目立ち始めているのである。

 ◆ 目次ページに戻る

  1. 2007/09/09(日) 20:05:33|
  2. 妄想小説 主権国家|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0

自立国家の建設 096

 ◆ 目次ページに戻る

また、この頃になると各国政府が派出した弔問の使節が、続々と秋津州を訪れるようになったが、ほとんどの場合肝心の国王と直接対面する場面は無かったと言われる。

一切合財の対応は、外事部を中心とした官僚達がそつ無くこなしているとは言うものの、いずれの場面においても、秋津州の国家元首たる国王が一向に姿を現さないのである。

まして、元首クラスの訪問に際してさえそうである以上、本来なら深刻な外交問題を招いてしまうところだが、その国の王の日常は丹波への移送作業で忙殺されてしまっており、それは全て他国の存続に寄与するためなのである。

各国当局としても文句の付けようが無い。

いずれにしても、若者が膨大な量を運搬し続けていることは確かであり、時間の経過と共に各国の対応振りもいよいよ本格化し始めていると言って良い。

殊に日本などでは、国内での準備作業が早くから進められて来ており、陸上自衛隊の各方面隊にもそれぞれ大動員が掛けられ、例のアクセスポイント(資材集積所)にしても、四百ヘクタールを超えるようなものが、各地の演習場を中心に次々と竣工し、富士の裾野にも二千ヘクタールにも及ぶ巨大なものが姿を現しつつある。

北海道の矢臼別(やうすべつ)演習場に至っては、八千ヘクタールもの施設が立ち上がって既に相当数の発送を担うまでになっており、この意味でも、各地の演習場が極めて重い役割を果たし始めているのだが、状況の深刻さを知らされていない制服組の間からは、相当な不満が出てしまっていると言う。

何せ、陸上自衛隊の演習場が本来の機能を大幅に失いつつあることは確かで、大規模な演習などは今後全く出来なくなってしまうのだ。

しかし、内閣の姿勢は崩れを見せない。

岡部のデスクには各地域の詳細なデータが積み上げられつつあり、離島の場合などでは現地の小学校の校庭などをマークしており、関西方面では舞鶴港を通じて日本海沿岸からのアクセスを重く見て福知山に、九州方面では大分の日出生台(ひじゅうだい)で相当な物を稼動させるに至っている。

いずれのアクセスポイントも、外側のレッドエリアにはPMEタイプの発電施設はもとより、さまざまの施設が立ち並び、天井クレーンや巨大な起重機なども具えている上、大小のフォークリフトが盛んに稼動し、そこから伸びる道路や複々線の軌道まで完成し始めており、現在はそれらの周囲に多数の給水塔と公衆便所の建設に余念が無い。

尤も、公衆便所と言ってもその辺の公園にあるようなちゃちな代物とは違い、数百人もの多くが一度に用を足すことが出来るような大規模な物ばかりであり、それが又一つや二つでは無いのだ。

対策室では基本的に全て水洗式を目指すとしているため、下水の処理に関する諸工事が最もコストが掛かると囁かれてはいるが、日本のように比較的高度な文明生活に慣れた庶民がほとんどで、かつ極めて人口密度の高い領域にあっては、たかが公衆便所一つとっても軽視するわけには行かないのである。

地球を脱出する際に、その場所で長時間にわたって待機させられる可能性もあり得ることから、公衆便所の取り合いだけで死人が出る騒ぎになってしまうかもしれず、膨大なコストを覚悟してでも造る必要があると考えて当然だろう。

これ等の作業もその多くが岡部大樹の指揮の下で地響きを立てながら驀進しており、その手許には女帝以下の優れた戦力が協働して、既に全国民に重複の無い通し番号が割り振られ、その作業は海外に在留する者についても又然りだ。

しかも、その通し番号に対応する顔写真等の個人データが再三照合確認されており、この件に関しても、協働する女たちが常識では考えられないほどの作業効率を実現させてくれている。

合衆国などでも広大な領域を使って盛んに建設が進められており、その点各国共に懸命になっていることは確かで、世界規模で見渡せば、既に数千箇所ものアクセスポイントの建設が始まっているとされる。

一部では広大な草原の上に、単に杭を打ち縄を張っただけと言う簡素なものも数多く見かけられ、このような状況下で、新田の元へはさまざまな移送願いが殺到しており、いよいよ以て、若者の作業はいつ果てるとも知れない。

しかし、多くの国々では、新領土の抜本的な建設プランはいまだに陽の目を見てはいない状況だ。


一方、騒動以来、若者の身を案じて傍を離れようとしないみどりにとっては、殊にその食生活に問題を感じざるを得ない状況が続き、しきりに胸を痛めていた。

何せ、大切な息子が満足に食事を摂ろうとしないのだ。

かと言って、酒だけは欠かさず、僅かなつまみ程度は口に入れてはいるものの、あの図体(ずうたい)から見て、とても栄養が足りているとは思えない。

真っ黒けの空飛ぶ円盤の中でいろんな料理を作っては見るのだが、ほんの少ししか口にしてはくれず、いつもどこか遠くを見ているような雰囲気で、無理やり持たせた箸が一向に進まない。

その首には今まで見たことも無いロケットを下げていて、それをまさぐりながら、ぼそぼそと独り言を言っていることが多く、本人に聞いてもさっぱり要領を得ないので井上さんに尋ねて見たところ、犠牲となった妻子(つまこ)の遺骨が入っているのだと言う。

察するところ、父として夫として保護し得なかったことを繰り返し詫びているらしく、挙句、時々虚空を睨みながら茫然としてしまっており、声をかければ振り向きはするものの、その視線がいったい何処を見ているのか、焦点が合っていないことさえあるのだ。

ともかく、あの日以来、ほとんどそう言う感じで過ごして来ており、唯一有紀子を膝に乗せているときだけが、辛うじて笑顔を見せるときなのである。

その上、丹波との往復のためにその息子自身が忙(せわ)しなく飛び回ってしまっており、それに付き添って動いている限り、お店の留守を任せてある理沙からの電話にもたまにしか出られない。

その電話は言わばテレビ電話とでも言うべき代物で、それも前に千代さんから手渡された支給品で、洗ってみれば超小型のノートパソコンらしいけど、充電なんか永久に不要だと聞いてるし、息子やその眷属と連絡を取るにはとても便利なものなのだ。

驚いたことに、同じ物を国井総理も持っていて、総理はそれを「窓の月」と呼んで重宝(ちょうほう)していると聞いたけど、官製葉書よりほんの少し大きいだけでとても軽めに出来ており、平気でバッグに収まってしまう。

それが、どう言う仕掛けになっているのかは判らないけれど、カメラもマイクも付いていない筈なのに、無料でテレビ電話が掛けられるのだ。

尤も、通話先が一般の人の場合だと、同じ物を持っていないと通じないらしく、結局、特定の限られたヒトとしか話せないみたい。

あたしのは今は理沙に預けてあり、理沙はそれを使って電話してくるし、あたしの方はあたしの方で、息子の持っている「窓の月」で受信するのだけれど、それが地球にいるときしか通じない。

丹波に出かけているときなんかはお店のことで報告を受けることも指図することも出来ず、文字通り音信不通になってしまうのだ。

尤も、自分にとっては今更お店どころの騒ぎでは無く、全て理沙に任せて置くほかは無いのである。

こうなれば、いっそ閉めてしまおうかとも思うのだが理沙が承知しない。

その理沙にしても今では三十路の声を聞き、あたしの見るところ、いいお相手さえ見つかれば再婚してもいい頃あいなのだけれど、それがすっかり落ち着いちゃっててその気配さえない。

世間の裏表を見過ぎたためか、或いは秋津州国王と言う並外れた男をあまりに身近かに見過ぎたためでもあるのか、言い寄ってくるオトコどもには見向きもしないのだ。

結婚に敗れた過去もあるくらいだから男嫌いなんかじゃ無い筈だし、一度さりげなく心境を聞いてみたこともあったけど、少なくともその辺をうろうろしているような男どもなど男とは見ていない様子だ。

口にこそ出さないが、どうやら、つい胸の内でうちの息子と見比べてしまうらしく、そのこともあって、未だにうちの店から離れられないでいるのかも知れない。

まあ、うちの店の看板はあの「八咫烏(やたがらす)」なんだし、それだからこそ日々の盛況が続き相応のお手当てを払ってやることも出来ているのだ。

お店のシステムの上から言っても、あまりがつがつする必要は無く、かえって昔のシステムのときより多めに払ってやっているくらいで、その点でも居心地が悪い筈は無いし、今ではその美貌もしっとりとしたものに変わりつつあり、それこそちいママとしては打って付けの働き振りを見せてくれているくらいだ。

近頃では、住まいもお店の近くにしゃれた分譲マンションを見つけて通って来ており、そのローンの保証人まで引き受けてやっている状況では、移籍するにしても余程の話で無い限りとても乗る気にはならないだろう。


さて一方で国家元首自らが秋津州非難声明を大威張りで発して置きながら、すっかり無視された格好の朝鮮共和国だが、その政府の公式見解では、前述の通り朴清源はその国の国民では無いことにされてしまっている。

朴清源の朝鮮共和国籍が、その国の政府自身の手によって公式に否定されてしまったのである。

朝鮮共和国側が、そのことの証(あかし)として秋津州側に公文まで交付したことにより、このテロリストが無国籍者であることが確定し、いずれの国家からも保護を受ける権利を失ったことを受け、日本の人権派と呼ばれる弁護士たちが、その人権擁護の旗印を掲げるに至ったことも既に触れた。

だが、一方に別のところに活動の力点を置く者もいなかったわけではない。

殊に、その国(朝鮮共和国)に滞在中の外国メディアの中にテロリストの名前や顔写真はおろか、海軍軍人だったと言うその兄の名前まで大々的に報じたものがおり、その結果思いも寄らぬほどの反響を呼んだのだ。

その兄弟に関し大量の情報が寄せられ、現地滞在中のメディアが兄弟の親類縁者を多数登場させながら競うようにして報道するに至ったのである。

少なくとも、テロリストの原籍が朝鮮共和国にあることを証言する者が数多く登場したことだけは確かで、その少年時代をよく知ると言う者が揃って生々しい証言を繰り返すシーンが報道画面に溢れ始め、ある者は朴清源を指して民族の英雄であると言い、その業績を指して盛んに称揚し、誇りに思うとさえ誉めそやしたのだ。

その場合の「業績」とは、無論秋津州王家に加えたテロ攻撃のことを指しており、それを以て、民族の恨みを晴らした輝かしい功績であるかのように言い騒ぐ者が数多く生まれ、中には、この一介のテロリストに対して「朴清源将軍」と言う尊称まで奉るものまで現れた。

当然、そのような風潮を苦々しく思い、諌めようとした者もいなかったわけでは無いが、その声も津波のような英雄賛美の声に掻き消されてしまった。

その国の政府はこの「英雄」を「国民」と認めるどころか大声で否定さえしてしまっており、その方針に反するような民の声は抑えられなければならず、圧力を加えそれらの口を封じようと思いつつ僅かに逡巡している内に、「朴清源将軍」を賛美する声は燎原の火のように燃え広がってしまった。

弾圧を恐れ、大規模なデモこそ発生してはいないが、ネットが盛んに利用された結果、各地で小規模な集会が開かれその熱気は高まるばかりだ。

最早その声を封じようとするものは、民族の敵だと言って良い。

まして、民衆が盛んに非難の声を浴びせている相手は「外国」であって、自国の政府では無いのである。

この件に限り、あのブラディ・キムが民衆への弾圧と言う選択肢を捨てたのも判らぬでは無いが、政府のこの手の意図は民の間には常に敏感に伝わるものだ。

やがて一部の者は「英雄の身柄の奪還」を叫び始め、国内メディアがそれに迎合するに及んで、多くの意味で起爆剤を与えられた気分の者がいよいよ増殖することになる。

それで無くとも、自国政権に対する内心の不満が不自然に抑圧され続けて来た結果、民衆の間の密閉圧力がかなりのレベルにまで高まってしまっており、既に発火点はかなり低いところにある。

政権側にも、それは充分に判っており、当然ある程度のガス抜きの必要性も感じてはいただろう。

武力クーデター以来議会が閉じられて、事実上議員資格を失ってしまった者たちの中にも、民衆の声に迎合し、あまつさえ積極的に便乗しようとするケースさえあり、復権を渇望するあまり、かなり不穏な見解を述べる者が増殖し、自然さまざまな怪情報が乱れ飛ぶことになってしまう。

しまいには、朴清源がかつて旧韓国の情報機関である国家情報院の触手の一人であったとする証言まで登場するに至った。

それによれば、朴清源の行動の幾分かは旧韓国政権が影にあってなされたものだと決め付けた上、少なくとも彼が北欧において日本人山内隆雄に接触し、それを殺害した後多少の整形手術を受けたあたりまでは、旧韓国政権が関与していた筈だと語っていたのである。

尤も、このあたりに関しては更に情報が錯綜し、ひどいものになると朴清源は二重スパイで、実は旧北部朝鮮の情報機関の指令に従って動いていたなどと言い出すものまで出たが、朝鮮共和国の中で朴清源を英雄視する向きだけは間違いなく拡大傾向にあり、やがて、英雄の身柄を奪還すべしとする声がその地を圧するほどになってしまうだろう。

だが、その国では肝心のことを知らない者があまりに多過ぎた。

その国の政府が、一方で秋津州に「請願」して相当な人員と機材を丹波に移送してもらっている事実をだ。


さて、自ら朴清源の弁護を買って出ている増田義男の方だが、依然として東京に腰を据えたままである。

何せ、問題の現地とは二千キロも離れてしまっている上、行路の大部分が太平洋と言う大海原であり、なおかつ厄介なことに一般の航空便が全く無い。

増田にして見れば、厄介なことだらけなのだ。

その国は、現に立派な空港設備まで持ちながら、未だに他国の航空機の乗り入れを頑なに拒み続けているため、一般的な渡航方法は今以て船便に限られてしまっており、その船便にしても横浜港から片道三日もの行程があることに加え、その貨客船は月に五便しか出ておらず、緊急の場合にはまるで用をなさないのである。

現実には、その国の特殊な組織である秋津州商事が運営する航空便に頼らざるを得ないが、SS六改と呼ばれるその「空中浮遊物」が又厄介で、チャーター便以外に存在しないのだ。

しかも、その組織は近頃大和商事と言う名前に改称されたと言い、ご丁寧にもその本拠は丹波にあると聞いた。

その丹波においても相当数の船舶を有し、なおかつ膨大な空中浮遊物を独占的に運用していると言う者もおり、結局、どう贔屓目に見ても秋津州は圧倒的な国力を以て世界を圧伏していることになり、増田の信条からすれば、このような独善的な国家の存在自体が許し難いものに見えてしまうのである。

しかしながら、この「空中浮遊物」はとんでもない飛行性能を持つことで知られており、関東東部で搭乗すれば一時間ほどで秋津州に着いてしまうと言う。

単純に計算しても、マッハ二に垂(なんな)んとする速度を誇っていることになり、まして人間の乗客が無い場合にあっては、その十倍を超える巡航速度を実現しているとする説まであり、いったいどれほどの限界性能を持つものやらそれこそ諸説紛々なのだ。

あろうことか、第三宇宙速度でさえ楽々と達成している筈だとほざくヤツまで存在する。

(筆者註:第三宇宙速度とは、太陽の引力を振り切るのに必要な最小初速度のことで、概ね毎秒十六.七キロと言われる。ちなみに、地表付近における音速(マッハ)は概ね毎秒三百四十メートルほどである。)

口惜しいが、これを用いない手は無いだろう。

我々のグループを陰に陽に支援してくれる者は今も大勢いるが、幸いなことに、その中にもこの「空中浮遊物」を長期にわたってチャーターしている者がおり、今回はそれを借用することに決している。

それを利用して、既に複数の精神鑑定担当医と共にグループの金子辰夫弁護士を先発させてあるが、その結果いろいろと面白くない報告が入りつつある上、他にも多くの案件を抱えている手前、直ぐには身動きが取れないのが実情だ。


十一月二十八日の朝に至り、ようやく秋津州に入った増田弁護団長は先着していた金子弁護士と共に被疑者に接見し、一時間にわたって直接の会話を持つことを得たが、これはと思えるほどの収穫をあげるまでには至らない。

接見の場所は審理の全てを担っているとされる若衆宿であり、それは、問題の王宮から四キロほど南に下ったところで、文字通りの田園風景に囲まれながらひっそりと鎮まりかえっていた。

やはり村役の一人が敷地と建屋を提供しているらしく、それは、村役の住まう屋敷とは三間幅の道路を挟んだ真向かいの敷地の中にあった。

その敷地は道路の南側に面し、三方を農地に囲まれながら九百坪ほどの面積を以て広がり、その中には間口十二間、奥行き八間ほどの建屋がまるで三つ子のような姿で建ち並んでおり、三棟とも瓦葺の平屋造りで、かつての秋津州戦争で焼失したモノを、そっくりそのままに建て直したとも聞いた。

入り口を入ったところに土間を広めに取り、板張りの部屋のほかにも畳敷きの大部屋が八つほど具わり、小さな台所にはIHヒーターが一つあるだけで、大振りのやかんが乗っているところを見ると、湯茶を沸かす程度の使われ方をしているもののようだ。

やがてその中の一棟で対面した被疑者は、事前の報告にもあった通り、実に不思議な環境に置かれていたと言って良い。

第一、そこには牢獄のような施設は一切存在せず、被疑者を物理的に閉じ込めて置くに足る装置が全く見当たらない。

無論、全ての棟を見てまわったが、相手側に制止するような動きは見られず、結局、牢格子そのものが無い代わりに、宿の一棟がそのまま牢獄の扱いになっていると解釈するより他は無い。

しかも被疑者は禁足すら強いられてはおらず、道路を挟んで北側にある村役の屋敷には散歩がてらしょっちゅう出入りしているらしく、結局彼は、秋津州においては何の変哲も無い「一棟」の中に、労働を強いられることも無く、ごく自然な日々を過ごしていることになってしまうのだ。

昼は青年部の者が二人ほど居残って、言わば見張り役の片手間に家内仕事に精を出しており、夜は夜で、仕事や学業を終え自宅で夕食を済ませてから集まって来る、大勢の若衆たちと共に過ごすのだと言う。

寝具も宿の構成員と同一のものが付与され、寝る場所まで彼等と一緒で、風呂も二日に一度は村役の屋敷でもらい湯をしていると言うし、少なくともこの国の習俗に照らして、ごく普通レベルの「生活」が出来ていると言って良い。

しかも本人の私物もとうに手許に届いていて、その日常に不自由があるとは思えない上に、五局あるテレビ放送は奥の部屋で四六時中見ていられると言い、結局、外部情報も遮断されていないことになり、その故郷の地では英雄賛美の声が大いに高まっていることも明確に認識しているほどだ。

その都度村役の屋敷から運び込まれる食事にしても、丼一杯の麦飯に一汁二菜ほどのものが支給され、夕飯には毎回多少の色も付き、動物性蛋白としては二日に一度は鯨肉も登場する模様で、カロリー的には充分なものと言って良い。

被疑者本人としては、そのメニューの貧弱さには多少の不満もあるようだが、調査によるとそのメニューにしても、支給先の村役の家のものと同一のものだったと言い、その点でも文句のつけようが無いのである。

被疑者との接見は広々とした土間に粗末な椅子を置いて行ったが、注意深く観察してみても拷問によって傷を負っている気配は無く、問題の取り調べも犯行当日とその翌日の二日間で一段落していて、その後は一度も行われてはいないらしい。

被疑者自身に罪悪感や後悔の念は微塵も感じられず、それどころか逆に犯行を誇る風が強いところを見ても、いわゆる典型的な確信犯であり、本人の昂然たる主張を聞く限り、四人を殺害し一人に重傷を負わせ、もう一人を切り殺そうと計り、事前に逃亡の準備まで周到に行っていることは確かで、どこをどう見渡しても歴然たる計画殺人だ。

挙句、未だ一歳にも満たない幼児をいの一番に刺殺してしまっており、その冷酷な為様(しざま)を見れば一片の同情を寄せるに値しないことは明らかで、噂によると、唯一の目撃証人の回復を待って審理が行われるとされているが、これでは救いようが無いだろう。

尤も、増田にしても、出会ったばかりのことでもあり、目の前の被疑者に感情移入するまでには至らず、本音のところを言えば、例え被疑者の身がどうなろうとそこに興味は薄い。

要は、日本や秋津州の体制側に痛撃を加え、政治的にダメージを与えることが出来さえすればそれで良いのである。

世論の意識誘導に主眼を置いている以上、統治機構と言う装置が民の行動を圧迫し多くの害悪を為すものであることを広くアピール出来さえすれば、それで目的が達せられるのだ。

その目的のためとあればどんな戦術でも採るつもりでおり、本来なら国王に切りつけたことを除けば全て冤罪を主張したいところだが、この被疑者の場合、故郷の英雄賛美論の影響もあってか、凶行の全てを自己の犯行だと誇らしげに主張し続けているため、それも適わない。

秋津州お得意の映像記録も国王が帰館してからのものが存在するだけで、それ以前のものは一切存在しないため、被疑者の自供は全て拷問が加えられた結果だとしたかったのだが、それを裏付けるようなものも発見出来ず、この点でも予想外の展開なのだ。

まして、最近耳にしたところでは、秋津州はその取り調べ状況の一切を音声付きの動画映像として記録しており、拷問があったことを立証することは益々難しい。

あらかじめ精神鑑定も行ってはいるが、責任能力を云々出来るほどのネタを引き出すには至らず、その上午後の記者会見はとうに予告してあるため、増田は今更ながら苦境に立ったと言えるかも知れない。

この際、秋津州の独裁体制による悪辣な統治実態の百万分の一でも良いから、天下に晒してやりたかったところだが、その具体例も発見出来そうに無い。

何せ、旗揚げにあたって華々しくぶち上げて見せた「秋津州の悪意に満ちた作為」と言う名の大花火が、全て不発に終わってしまいそうな雲行きなのである。

それでなくても、かつて日本人拉致問題に関して北部朝鮮側をひたすら擁護し続けて来たことが問題視され、近頃では「正義感に溢れた熱血漢」と言う表看板が少なからず揺らぎ始めており、増田にとって、「社会正義を守る人権派」と言う美名を維持するためにも、それなりの道具建てがどうしても必要なのだ。

金子と共に昼食を摂りながら、さまざまに思いを巡らしては見たが、有効な手段が見つからないまま容赦無く時は過ぎ、やがて予定の時刻が来てしまった。

記者会見場は海都の中でも一流と称されるホテルに設定されており、そこには多数の報道用機器が入り、既に予想以上の熱気に溢れていた。

これも、それだけ各界の耳目を集めていた証拠であり、この席で増田が苦し紛れに用いた舌刀(ぜっとう)が、なおのこと話題を攫ったことは確かだろう。

いずれにしても、増田が天性のアジテーターであったことだけは動かない。

金子を引き連れて席に着いた彼は、開口一番、「正義と言うものを、ここ秋津州の地から世界に発信したい」と、実に見事な台詞から入って、ある意味又しても大向こうをうならせて見せたのである。

そして、如何にも社会正義の権化(ごんげ)であるかのような雰囲気を醸しつつ、今現状を見るに、被疑者の生命が非常な危機に曝されているとぶち上げた。

被疑者の身が物理的に解放されていることから、秋津州の官憲が被疑者に逃亡を唆(そそのか)し、その機会を待っているとしたのだ。

逃亡犯を追捕し、抵抗があったとして殺害する機会を探しているのだと言い放ち、秋津州の官憲は、悪辣極まりない策謀を用いていると舌鋒鋭く力説して已まない。

それも、復讐の為に最も残酷な手法を以て殺害を企てていると発言するに至っては、記者席から痛烈な反駁が飛んだのも無理からぬことだったろう。

だいたい、秋津州側にそのような意図があれば、身柄拘束の時点で即座に実行していた筈で、被疑者を捕らえたのも国王自身で、その眼前で斃れていたのがその妻子であったことからも、国王にその意思が無かったことは明らかでは無いかと言う意見が噴出した。

まして、被疑者が凶器を以て国王に切りかかったことだけは歴然としており、一歩間違えれば国王の方が殺害されていた可能性すらあり、国王が即座に反撃し、その場を去らせず殺人者を討ち取っていたとしても、むしろ当然だと言うものまでいた。

凶漢が長大な凶器を用いて襲ったにもかかわらず、国王が携行していた武器(山姥)を使おうともせず、素手で取り押さえた事実から見ても、壇上のアジテーターの主張は、その国王に対して非礼極まりないものだとする日本人記者が多く、増田の舌刀は見事に粉砕されてしまったと言って良い。

結局、増田の見通しは甘かったと言うべきであったろう。

以前の日本メディアなら、社会正義の旗手である自分たちに対して、ここまで痛烈な反論をするなど考えられなかったからだ。

よしんば、一部に反論があったにせよ、いざ報道するに際しては、その場面は必ずカットされていた筈であり、一般の聴取者には最も大切な部分が全く伝わらないことになっていた筈なのだ。

確かに数年前までのことなら増田の戦術は功を奏したかもしれない。

殊に日本ではメディアは揃ってその肩を持った筈で、視聴者の多くが無批判にそれを受け入れ、そのパターンの世論が実に安易に形成されて行くのが常だったからである。

しかし、この点でも時代は明らかに変わりつつあった。

現に、NBSから配布された例の写真、凶行のあったその当日、あの部屋の障子に向かって茫然と立ち尽くすビルの後ろ姿を捉えた映像が世界に氾濫してしまっている。

その後ろ姿は、夕暮れの中で、まさに悲しみに打ち拉(ひし)がれてしまっていた。

ほんの数時間前にその障子の向こうで、未だ一歳にも満たない幼児が無惨に惨殺されてしまった現実を、物言わぬ後ろ姿が否応無く語り掛けて来るのである。

何一つ罪を犯してなどいない筈の幼児がそこで刺し殺されたと言う現実が、見る者の胸に確実に染み入って来る。

その背中は、人権擁護を叫ぶほどなら、その赤子の人権をこそ叫ぶべきだと主張していたに違いない。

その後現地の村役が取材に応える姿があり、その者の言によれば、増田の発言を重く受け止め、その根拠が明らかにされない限り、増田は我が村落を誣告(ぶこく)したことになると言う認識を示した。

それを報じたメディアの論調によれば、故なくして他を貶める行為はその地では明瞭な違法行為と見なされるとしており、違法行為である以上、それが明白になった時点で「犯人」は逮捕される見通しだと解説していた。

日本のテレビ報道などでは、その主張の根拠に関する立証責任は偏(ひとえ)に増田側にあるとしており、その後増田が二度とその地に足を踏み入れなかったことを捉え、殊に日本の言論界においては、増田等の表看板は既に泥にまみれたと評され、やがてその言動は容赦無い批判の嵐に晒される羽目になるのだが、それは又のちのことではある。

 ◆ 目次ページに戻る

  1. 2007/09/11(火) 23:19:23|
  2. 妄想小説 主権国家|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0

自立国家の建設 097

 ◆ 目次ページに戻る

その年も師走に入ったある日の昼下がり、台東区は松が谷付近の言問通りで一人の女がタクシーを拾う姿があった。

かなりスポーティなデザインのハーフコートを羽織った興梠(こおろぎ)律子である。

すらりと伸びた足に吸い付くような細身のジーンズを履き、足元は真っ白なスポーツシューズで固め、この季節に大き目のサングラスを掛けてはいたが、優れて色白の美貌は覆うべくも無く、その若々しい出で立ちと共に、相当に人目を惹いていたことは確かだろう。

それでなくてもマスコミ関係の男たちがカメラを構えて大勢付いて来ている上、中には後部座席からカメラを構えた二人乗りのバイクまで出動しており、まったく、うるさくてしょうがないのだ。

昭和通りを、本来の目的地から言えば一旦逆行して下り線を走り、三ノ輪で車を捨て歩いてその国道を渡った。

無論、うるさい連中も大勢ついて来る。

咄嗟に目に付いたパチンコ屋の正面から飛び込み、直ぐに裏手から抜け出てしばらく裏通りを歩くと、もうそれだけで付いて来る者は見当たらない。

何でこんな思いしなくちゃいけないのよ、まったく。

でも、あたしが取り次いだばっかりに、罪も無い赤ちゃんまで殺されちゃったのだ。

まるで、天罰が下ったみたいな気分だし、出来ればお墓参りに行ってお詫びしたい気持ちで一杯だったのだ。

再び昭和通りに出ると、待つほども無く空車が来た。

ドライバーに上野広小路と告げたが、それは一年前まで働いていたスナック葉月のある場所であり、今日はこれからその店の葉月ママに会いに行くところなのだ。

車は上り車線を順調に走ってくれており、律子は見慣れた風景を窓越しに眺めながら過ぎし日のあれこれを想う。

考えれば考えるほど、悪夢のような二週間だったのである。

それは、先月の二十二日に突然始まった。

丁度その日に、海の向こうで殺人事件が起きたことから、とんでもない災厄が降りかかって来たのだ。

それ以来、ダーティ・ヒロイン興梠律子の名前は日本中に轟いてしまった。

あたしの姿がワイドショーに登場しない日は無いほどで、そこから否応無く発信され続けたイメージは、殺人鬼の情婦として凶悪犯罪に手を貸した稀に見る悪女なのだと言う。

近日中にも司直の手が伸びて身柄が拘束されるかのように匂わせるものまで出て、最早一旦外出すれば、生卵や石が飛んで来ても不思議は無いと言う騒ぎになってしまっており、ひたすら茫然たる想いで過ごして来た。

マスコミが殺到してスーパーヤスダの客の入りは激減し、仕入れの一部が滞るまでになったばかりか、昨日なんかはレジの釣銭にも事欠くありさまで、そこまで金繰りに詰まっていることを知って愕然としたくらいだ。

だいいち、夫、一夫が昨年この私にプロポーズを繰り返していた頃の話では、株式や国債の他にも相当な流動資産を持っていた筈で、少なくとも、たったこれだけのことでバンザイしてしまうような懐具合じゃ無かった筈なのだ。

結局、そのほとんどが一夫の法螺話だったことになるのである。

それもこれも予想もしなかったことだったのだが、知ってしまった以上、妻として放って置くわけにも行かず、独身時代に稼ぎ貯めた分から手助けしようと思って銀行へ出かけて見て驚いた。

その口座が、とうに空っぽにされてしまっていたからだ。

少なくとも八百万はあった筈なのに、全く知らない間に残高が四桁になってしまっており、情け無いやら腹立たしいやらで、飛んで帰って夫を問い詰めて見たところ、謝るどころか夫婦なのだから当たり前だと怒鳴るのだ。

前にカードの暗証番号を教えちゃったのがいけなかったのだが、それにしたって一言の断りも無くカードを持ち出して、黙って全部使っちゃうなんて、「いったい、どう言うことなのよ」と一言文句を言っただけで、途端に拳(こぶし)が飛んで来る騒ぎで、腹が立つより呆れ返ってしまった。

こんな人では無かった筈なのである。

何度目かのプロポーズに「うん。」と言ったときなんか泣いて喜んでいたくらいで、とにかく優しくて、ひたすら私を愛してくれていた筈なのだ。

それが、お店が左前になったからと言って、この変わりようはいったい何なんだろう。

今考えれば、新婚間も無い私があの山内隆雄から頼まれた件を夫に話したところから、ヘンと言えばヘンだったのかも知れない。

あの時の山内は突然お店に買い物に来てレジを手伝っていた私をつかまえ、その頃話題になっていた秋津州の刀匠に弟子入りしたいと言い出した。

あたしとその話が何の関係があるのかしらとは思ったけど、結局、刀匠になることを夢見ていて修行の間の生活費にも困らないだけの蓄えもあり、その上、その分の費用も前金で払うから、先ず刀匠に作刀を依頼してみて欲しいと言うので、そのまま夫に取り次いでやったのだ。

刀匠とのコネを造るのが目的であることくらいは、いくらなんでも判ってはいたが、そのあと夫と山内の間でどんな話になったのかは、ほとんど聞いた覚えはないのである。

いくらもらったかなんて、とうとう最後まで言わなかったけれど、それも、夕べの反応から見て一千万はくだらないらしい。

それに、売りに出していた刀も売れたことだし、最低でも差し引き五百万は儲かった筈だと思うけど、以前から目一杯の利払いを抱えていて、お店の資金繰りには追いつかなかったみたいだ。

実際、私の貯金だって全部つぎ込んじゃってるわけだし、その上ブランド物のバッグやアクセサリーなんかも、全部置いて出て行けって言われたときにはもう呆れちゃったわよ。

結婚前に買ってもらったものばかりなのだから、そりゃあそう言われたって仕方が無いけれど、そう言われた時には改めてその顔をつくづく眺めちゃった。

「百年の恋も一瞬にして醒める」とは、このことかと思ったのである。

もともと彼が入籍を渋ったのも彼の娘さんが反対したからなのだけれど、それがかえって幸いだったと吐き捨て、しまいには、おまえのような疫病神は早く出て行けと怒鳴る始末で、確かに、マスコミが押し掛けてくる目的が大部分この私にあると言われても反論に困るけど、それだって私一人の責任じゃない筈だ。

だいいち今度のことは、最初から最後まで山内と彼が二人で相談してやったことで、細かいところなんか私には何にも言わないで決めちゃったくらいなのに。

そしてその結果が、あの二十二日のニュースだったのだ。

ニュースでは、あたしが夫に取り次いだ男が犯人だと言う。

それにしても、あの男がそんな大それたことを考えていただなんて、ほんとに驚いちゃったわよ。

だって、ごきぶり一匹殺せないような感じでとても大人しそうな人だったし、今から思えば、それもこれもみんな芝居だったらしい。

そう言えば、本当は朴何とかって言うのが本名らしいし、その正体は山内なんて嘘っぱちで、日本人でさえなかったみたい。

テレビでやってる番組なんかでは、本物の山内さんを殺してその人の財産も全部盗っちゃったって言ってたし、結局そのお金でお店に通って来ていたことになるのかしら。

あの当時週に三・四回はお店に来ていたし、そんな悪い人には見えなかったから何回か食事くらいは付き合ったけど、それ以上のことなんか何にもありはしなかったのだ。

確かにプレゼントもたくさんいただいたけど、それにしたって、こちらからねだったわけじゃあるまいし、ほかのお客さんの場合と似たり寄ったりのもので、ほかの女の子だってみんなそうして稼いでいる筈なのだ。

だいたい換金性の高いブランドもののバッグなんかは、お客さんのほうが詳しいくらいで、同じものばかり五つも六つもいただいちゃうことなんかもしょっちゅうだったし、それに、実際お給料だけじゃとても貯金なんて出来やしなかったもの。

まあ、ほとんど無一文で追い出されちゃったことにはなるけど、いざこうなって見ると、自分のバカさ加減にも多少ハラが立たないわけじゃない。

なんだかんだで一千万ほどは損しちゃったみたいだし、授業料としちゃ安い方じゃなかったけど、結局、昨日まで愛していた筈のあの中年男に今はもう未練のかけらも無いことに気付かせてくれたことが、一番の収穫だと考えて諦めた方が利口だと思う。

一瞬、八百万だけでも返してって言おうかと思ったけど、どうせ無駄だろうし、今さらそんなことを言っちゃうとオンナが廃(すた)ると思って、歯を食いしばって我慢したのだ。

これで何もかも終わっちゃったけど、少なくともあのオトコに借りを作らずに済んだことだし、今度どこかで出会ったとしても文句一つ言われる筋合いは無いのである。

夕べから必死で荷造りした衣装や靴なんかは、今朝方未だ暗いうちにバックヤードの裏口から積み込んでもらって、どこか他のところでしばらく待機してから送ってもらう手筈にしてあるけど、ダンボールにして五・六個もあることだし、ママの部屋だってそういつまでもってわけには行かないのだ。

早く「葉月」に復帰して、部屋を探さなくてはいけないのだけれど、夕べと今朝のママの反応も気になって来る。

電話の向こうのママが、あたしの復帰を単純に喜んでいる風には思えなかったのだ。

きっと、マスコミのマイクやカメラが追い掛け回したりして、お客さんに迷惑が掛かるのを心配しているに違いない。

何しろ、このあたしは今や超有名なダーティ・ヒロインだし、スナック葉月は典型的な客商売なのだ。

直ぐに職場復帰して稼げるとばかり思ってたけど、そう考えると、そう簡単な話じゃ無くなって来ちゃうかも知れない。

二階に「葉月」の入ってるマンションから大分離れたところで車を捨てたけど、車代を払ったら財布の中に福澤諭吉さんは一枚しか残ってはいなかった。

相当心細かったけれど、その四階にあるママの部屋まで辿り着きさえすれば、あとは何とかなる筈なのだ。

ママは実家に預けてある一人娘がたまに泊まりに来るほかは完全な一人暮らしだし、押し掛けて行く居候の身にとっては、その点とても気楽なのだけれど、さっきタクシーの中から電話したら、丁度今あたしの顔見知りのお客さんが来ていると言われてしまった。

どうやらママの方で頼んで来てもらってるらしい口振りなので、高校生の娘さんの筈は無いし、いったい誰なんだろうと思ったけど、顔を見れば判るからと言ってとうとう教えてもらえなかったのだ。

ヘンな人だと込み入った話が出来なくなっちゃうのにと思いながら、懐かしいその部屋のチャイムを鳴らしたのである。

遠慮無しに上がりこむと、さっきから心に引っかかっていたその先客は、やはりママの一人娘の咲(さき)ちゃんじゃ無くて、あの有名なクラブ碧でちいママを張っている理沙さんだった。

ママにとっては十年近い付き合いのある親友かも知れないけど、私にとっては赤の他人に近い人なのだ。

確かに顔見知りには違いないが、実際問題、前にこの部屋で二・三回会ってるだけで、たいして口を利いたことがあるわけじゃなし、今日の話はこの人の前ではとても話せないことばかりだ。

あたしの送った荷物は、雑然と玄関先に積み重ねられていた。

やっぱり、相当場所を取っちゃってるなあ。

興梠「ママ、またお世話になります。」

葉月「理沙ちゃんには、何度か会ってるわよね。」

葉月ママ、本名横山葉月は、下膨れした顔にいつもと変わらぬ笑みを見せながら、それとなく挨拶を促してくる。

それにしても、また太ったみたいで六十キロは超えてしまってる感じだけど、色白のその顔は未だ充分な若さを保っていて、とても三十六には見えやしない。

興梠「はい。理沙姉さん、ご無沙汰してまあす。」

相変わらずすっきりした美人の理沙さんは、確かママより五つ六つ年下だと聞いていたけど、どう見ても二十五・六にしか見えないのだ。

理沙「ご無沙汰はお互い様だけど、あなたも、いろいろと大変みたいねえ。」

興梠「あらあら、おお、恥ずかしい。」

いやだわ、ママったら、どこまで話しちゃったのかしら。

理沙「別に恥ずかしがることなんて無いと思うわよ。あたしなんか、もう七・八年も前になるけど、たった、三ケ月で離婚しちゃったもの。」

興梠「理沙姉さんも、そんなことあったんですかあ。初めてお聞きしました。」

理沙「それに、こおろぎちゃんの場合、籍入れてなかったって言うじゃない。」

興梠「えへっ。」

理沙「結果正解だったみたいだわね。」

興梠「でも、そこんところは少し複雑な気分ですわ。」

実際にちゃんと添い遂げるつもりで、安田と一緒になったことは間違いないのだ。

だが、安田の高校生の娘が大反対で泣くは拗ねるはで、結局、その娘さんが成人するまで結婚式は勿論、入籍も待とうと言う話になっていたのである。

理沙「あら、そうなの。あたしだったら絶対正解だったと思うけど。」

話してみると理沙さんは、思っていたよりずっと気さくな人だった。

このとき、それまで黙って聞いていた葉月ママが口を挟んだ。

葉月「それより、こおろぎちゃんは、済ませておきたいことがあるって言ってた筈よねえ。それで、理沙ちゃんに来てもらったのよ。」

興梠「え?」

葉月「だって、あなた、自分のせいで赤ちゃんまで殺されちゃったって泣いてたじゃない。それで、お墓参りしてお詫びがしたいって。」

興梠「それは、そうなんですけど・・・・ あっ、」

クラブ碧の影のオーナーが誰だったのか、やっと思い出したのである。

自分なんかには別世界の話だけど、その世界では有名な話ではあるのだ。

葉月「思い出したみたいねえ。」

興梠「は、はい。」

葉月「理沙ちゃんにお願いしてみたらと思ってさ。」

興梠「そりゃあ、お願いできればこんな嬉しいことはないんですけど、実はあたし一文無しなんです。」

実際、秋津州までの船賃すら払えないのである。

葉月「あら、だって、あなた、一千万近く持ってたじゃないの。」

興梠「えへっ、全部、安田にくれてやりましたあ。」

葉月「え?どう言うこと?」

興梠「昨日、久し振りに銀行に行ってみたら、残高が千二百円になっちゃってたんですの。あはははっ。」

葉月「あはは、じゃないわよ、それって、あいつが勝手に下ろして使っちゃったってこと?」

興梠「早く言えばね。」

葉月「あらあら、返せって言わなかったの、あんた?」

興梠「何で黙ってたんだって文句言ったら拳固が飛んできたわ。それから先は、もう修羅場よね。だって、換金出来そうなバッグなんか全部置いて出て行けって怒鳴られちゃったし、しまいにはこのあたしをつかまえて疫病神って言うし、その顔見てたら、もう、可笑しくって。あはははっ。」

葉月「疫病神って・・・」

興梠「だからあ、あたしがいるとマスコミが押し掛けて来て、商売にならないって言うのよ。」

葉月「でも、あの山内を刀鍛冶の先生に紹介したり、いろいろやったのは安田なんでしょ。あんた、その中身はまるっきり教わって無いって言ってたじゃない。」

興梠「そりゃ、そうなんだけど、最初に山内を安田に紹介したのは確かにあたしなんだし。」

葉月「だって、そうだったら別にあんたの責任ってわけじゃ無いじゃないの。」

葉月ママは、まるで自分のことのようにいきり立ってしまっている。

興梠「えへへっ、でもそう言う男に惚れちゃったのはあたしなんだし、あはははっ。」

葉月「まったくっ、女の敵(てき)よ、そんなの。」

興梠「まあまあ、許してやってくださいな。」

こおろぎ本人がけろりとしているのである。

葉月「ま、あんたがそう言うんじゃしょうがないけど、でもハラ立つわ、ほんとに。せめて、あんたの虎の子だけでも返してもらいたいわよ。ほんと出るとこ出てでも、ぎゅっと言う目に合わしてやりたいもんだわ。」

興梠「あら、そんなことしたら、オンナが廃(すた)ると思って、とっくに諦めちゃったわよ。」

葉月「バカねえ、オトコが廃(すた)るってのは聞くけど、少しぐらい、せこいことやったってオンナは廃(すた)らないわよ。」

興梠「えへへっ、でも、ブランドものを全部置いて行けって言われちゃったら、もう情け無いやら、なんやらで、とってもそんな気になんかなれないわよ。」

葉月「そりゃ、そうよねえ。そんな情け無いこと言われたりしたら、そうかも知れないわねえ。」

興梠「それに、たった一人のカレに言われたのが余計情け無くてさ。」

まるで漫才のような二人の会話を聞いていた理沙が、やっと口を入れる番が来た。

理沙「ちょっと待ってよ。そうするとこおろぎちゃんは、あの殺し屋の彼女だったってわけじゃなかったの?」

興梠「あの、お言葉ですが、あたしは誰の彼女にもなってませんわ。安田のときだって、正式なプロポーズをお受けするまではキスもさせたこと無いんだし。」

理沙「あらまあ、それはそれは大変失礼申し上げましたわ。ごめんなさいね。だって、あたしとか、うちのママが聞いてた話とはずいぶん違うんですもの。」

メディアの作り上げた律子のイメージ像は、あくまで殺人者の情婦で稀代の悪女でなくてはならないらしい。

葉月「あら、この子は身持ちは堅いのよ。それだけはあたしが保障するわ。」

黙っていられないとばかりに、今度は葉月ママが口を挟んだ。

理沙「ほんと、見ると聞くとじゃ、えらい違いだわね。あたしだって今日の話を聞くまでは、てっきりそうだと思い込んでたもの。」

興梠「まあ、そう言うわけで、理沙姉さんにお願いするのは少し稼いでからになっちゃいますけど、そのときは、ほんと、よろしくお願いします。」

律子は、改めて深々とお辞儀をして見せた。

葉月「ちょっと待ちなさいよ。そのくらいあたしが持つわよ。あんたがそんな気でいるのに、知らんぷりなんかしちゃったら、それこそ、あたしのオンナが廃(すた)っちゃうわよ。」

興梠「でも、いくらぐらいかかるか判んないし、せめて百万くらいは稼いでからじゃないと・・・・」

葉月「そのくらい任しときなさいよ。なんせ、あたしはあんたと違って、虎の子を取られちゃうようなオトコなんかいないんだからさ。」

興梠「ひっどーい。」

理沙「まったく、おもしろい人たちねえ。そうやっていつまでも漫才ばっかりやってると日が暮れちゃうわよ。それにここまで聞いといて知らんぷりしてたら、今度はあたしの方のオンナが廃(すた)っちゃうわね。」

女三人が大笑いしている。

理沙「ところで、もう一度聞くけど、こおろぎちゃんのお墓参りの話、ほんとに本気なのよね?」

興梠「勿論本気だわ。これだけはほんとに申し訳ないと思ってるんですもの。」

興梠は神妙な面持ちである。

理沙「だったら、ちょっと待ってね。」

そのとき、理沙がおもむろにバッグから取り出してテーブルに載せたものがあった。

一見、化粧道具の一つのような感じの薄い銀色のケースだ。

蓋を開けて、小さなボタンを二つ、三つ押している。

葉月「あら、それテレビでやってた国井総理のパソコンと同じよね?確か窓の月とか言ってたけど。」

最近報道された窓の月と同じものであることは確かだ。

理沙「ええ、あたしのはママからの預かり物なんだけど。」

窓の月「はい、こちら秋元京子、ご用件を承ります。」

そのとき、窓の月が明瞭に喋ったのだ。

画面には一際上品な女性の上半身が映し出されており、良く見ると、秋津州商事のあの高名な女社長その人なのだ。

理沙「あの、うちのママの帰りは何時頃でしょう?」

京子「あ、理沙さん、こんにちは。予定ではあと三分ほどで北海道にお着きになりますわ。なんでしたら、あたくしの方で理沙さんへ連絡をお入れするよう、お伝えしておきましょうか?」

理沙「あ、そう願えれば助かります。」

京子「承知致しました。それでは一旦切らせていただきますわね。」

理沙「はい、それでは、よろしくお願いします。」

通信はあっと言う間に終了し、窓の月のモニタは何の変哲も無い黒い画面になって鎮まっっている。

その後、女三人のおしゃべりは止め処無く続き、問題の三分などは直ぐに経過してしまい、遅い昼ごはん用に出前を注文するやら何やらで十五分ほども過ぎてから、テーブルの窓の月に軽いシグナル音が届いた。

勿論、みどりママからである。

画面ではみどりの膝で有紀子が愛らしく手を振っていたが、実はこの直前までのみどりは、ある貴重な動画映像に見入っていたのだ。

北海道の矢臼別(やうすべつ)に帰還した直後、官邸の京子から連絡が入り、理沙に連絡する前に是非ともご覧いただきたいと言われた資料映像なのである。

それは、理沙の居る部屋で繰り広げられた漫談のような会話を中心に構成され、その上多少の解説まで加わって、律子の身の回りで起きたことが非常に判り易く「編集」されているものであった。

早く言えば、興梠律子と言う一人の女性を好意的に扱った紹介ビデオのようなもので、少なくともみどりにとっては衝撃的な内容だったと言って良い。

実際、みどりから見たその女のイメージは、あの忌まわしい殺人者の情婦として、共に犯行を企てた憎むべき仇敵そのものであり、それこそ見つけ次第殺してやりたいとさえ思っていたほどだ。

もしも、有紀子と言う存在が無かったら、冗談では済まされないようなことが起きてしまっていたかも知れない。

だが、あれ以来、心が大きく損なわれてしまった息子にしても、最近ではその傷口もようやく塞がりかけて来ているらしく、僅かながらも口を利いてくれるまでになって来ている上、みどりの手料理にも少しは箸を付けてくれるところまで立ち直りつつあり、それに連れて、みどり自身も重い気苦労から幾分解放されようとしているところだ。

したがって、今回の変事に関して、みどり自身の心境も大きく変化を遂げていることになる。

理沙「ママ、おかえんなさあい。」

無論、理沙はみどりが国王に付き添って、地球と丹波を忙(せわ)しなく行き来していることも承知しており、信じ難いことに、それが多いときには日に二百回にも及ぶのだと言う。

みどり「はあい、ただいまあ。」

理沙「ママの息子さんは、その後だいじょぶですかあ?」

息子さんとは当然国王のことを指しているのだが、後ろから画面を覗き込んでいる葉月と興梠には意味が通じず、怪訝そうに顔を見合わせてしまっている。

みどりママに息子さんがいたなんて、それこそ初耳なのである。

みどり「うん、ちょっとだけ元気が出てきたみたいよ。ごはんも少しは食べてくれるようになったから。」

理沙「じゃあ、ママの復帰も近いですよねえ。良かったあ。」

みどり「うん、もう、ちょっとね。」

理沙「あんまり時間が無いと思うんで、急いで紹介したい人がいるんですけど。」

理沙がさっさと二人を紹介し、互いに軽く挨拶を交わしあった。

理沙「それで、このこおろぎちゃんのことなんですけど。」

みどり「真人ちゃんたちのお参りとお詫びのことなんでしょ。」

理沙「あら、お聞きになってらっしゃったんですか。」

みどり「うふふっ、つい今しがたにね。」

先ほど届けられた資料映像によると、この興梠と言う女性は今度の事件にはほとんど関与しておらず、その上まるでみどり自身の人生の軌跡をなぞるかのように、たった一人でこの世の荒波を生き抜いて来ており、その点でも身につまされるような想いで見ていたところなのだ。

実際、今回のことでは、加害者どころか被害者だと言って良いほどだ。

それに、未だ、はたちかそこらの若さで、この気風(きっぷ)の良さはどうだ。

先ほどまでの先入観が百八十度引っくり返ってしまい、皮肉なことに、みどり自身がいっぺんに気に入ってしまったのである。

理沙「それで、どうしたらいいかと思いまして。」

みどり「そのことなら、陛下も、わざわざ詫びに来る必要は無いって仰ってるくらいよ。だって、そこの興梠ちゃんに悪意が無かったって事はとっくにご存知でいらしたから。」

理沙「でも、本人の気持ちの問題もありますから。」

みどり「それより、興梠ちゃんにはとんでもない傍杖(そばづえ)で大変なことになっちゃってるみたいよねえ。最初にそっちの方をなんとか考えてあげないといけないんじゃないかしら。」

理沙「あら、それじゃ、一文無しで追い出されちゃったことなんかも聞いてらっしゃるんですか。」

みどり「大体のところは、さっき伺ってこっちも驚いてたところなのよ。あたしなんかも全然イメージが狂っちゃって。それに葉月さんのお店だって、あの調子でマスコミに押し掛けて来られた日には相当困るわよねえ。お店に出はいりするたびに、いちいちフラッシュなんか焚かれちゃったりしたら、たいていのお客さまは嫌がるだろうし。」

現実にはマイクまで持って待ち構えていたり、ときには図々しく店の中までカメラが入って来たりすることもあり得るのだ。

現に、スーパー・ヤスダなどは、目も当てられないほどの騒ぎになってしまった。

葉月「ご心配いただいてありがとうございます。でも、こうなったら、あたしの方にも女の意地ってものがありますから。」

葉月の方は、もう半分は、やけっぱちのようだ。

尤も、ホステスとしてのその女性は、お店にとっては非常な戦力にもなり得るのだ。

みどり「おほほほ、ここで引いたらオンナが廃っちゃうかしら。」

葉月「そうなんです。あはははっ。」

みどり「まあ、どっちにしても、葉月さんも興梠ちゃんもみんな困らないようにすることが一番だと思うわ。」

興梠「ほんとに、ご迷惑お掛けしておりまあす。」

みどり「いいええ、大体のことは判りましたから。興梠ちゃんさえよろしかったら、お参りのことも今後のことも全部一切合財ひっくるめて、こちらでお引き受けしましょうか。」

興梠「いえ、そんなこと、罰が当たっちゃいますから。」

みどり「あんまり時間がありませんから、あとは理沙ちゃんに良く聞いて、神宮前に千代さんを訪ねてみて下さいね。絶対悪いようにはしませんから。それじゃ、一旦切りますねえ。」

理沙「はあい、行ってらっしゃあい。」

通信が切れてからは、無論理沙に質問が集中することになる。

理沙は、みどりママが今後のこともひっくるめて一切合財引き受けると言い切った以上、ほんとに一切合財なんだと力説したのだが葉月も興梠も当然半信半疑だ。

だいたい、そんな旨い話にはたいてい裏があると言うのは世間の常識だろうし、そう簡単に納得出来るはずも無いのである。

殊に興梠自身は、葉月ママが女の意地で自分のことを引き受けると言ってくれてはいても、結局とんでもない迷惑をかけてしまいそうで、先ほどからひどく考え込んでしまっていたのだ。

この分では他の店で面接を受けても結果は知れており、そうなれば一文無しの自分は、葉月ママのところに何時までも居候を決め込まなくてはならないことになってしまう。

今まで軽く考えて来たことが、土台から崩れ去ってしまったようなもので、流石にうろたえてしまったのである。

とにかく、一文無しのままでは身動きが取れない。

今さら安田に泣きつくくらいなら死んだ方が増しだし、かと言って葉月ママに借りても返せる当てが無いのだ。

思い悩んでるさなか、理沙さんの声が聞こえた。

理沙「ねえ、どうなの。神宮前に行ってみる気になった?」

興梠「でも、正直言って少し怖いわ。」

相手が引き受けてくれるとは言っても、当然何らかの条件があるに決まってるし、その内容にしても見当もつかないのだ。

理沙「あら、ひょっとして、何か条件がつくんじゃ無いかって思ってやしない?」

興梠「だって、世の中にそんな旨い話なんて・・・」

理沙「あのねえ、うちのママの後ろに付いてるヒト、誰だか判ってるんでしょ?」

興梠「うん、本音を言っちゃえば、そのヒトが一番恐ろしいんだもの。」

理沙「だって、一番お詫びしたいのもそのヒトなんでしょ。」

興梠「それはそうなんだけど、その人はとってもワイルドなヒトだって言うし。」

この場合のワイルドには、荒々しい乱暴者と言うニュアンスが多く含まれていたに違いない。

何せ、一連の報道によれば、日本刀で切り掛かった犯人ですら、携行していた武器すら使わず、素手のままで軽々と取り押さえたとされているほどだ。

理沙「そりゃあ、天才的な挌闘家だとは聞いたけど、見境い無しに乱暴を働くような方じゃ無いわよ。その点は、ママがああ言ってるんだから、絶対だいじょぶだと思うわ。今までだって、ママの言うことならたいていのことは聞いてくれてるんだから。」

興梠「そうなんですか?」

それじゃ、まるで猛獣使いじゃないの。

理沙「それに、ママにとって陛下は息子みたいなもんだから、陛下が困っちゃってても、ママが強引に押し切っちゃうことだってあるのよ。あたしなんか、そう言う場面、何度もこの目で見てるんだから、そりゃあ確かよ。」

興梠「・・・。」

やっぱり、猛獣使いじゃないか。

理沙「まあ、無理にとは言わないけど、このまま、じっとしてるよりは増しだと思うんだけどねえ。」

興梠「でも、その千代さんってヒトは・・・・」

理沙「あ、さっきの話の千代さんね。そのヒトって秋元千代さんって言って、うちの立川商事の重役さんなのよ。未だ二十代だけど、あの有名な秋津州商事の重役さんでもあるのよ。」

興梠「そんな偉いヒトなんですか。」

自分と引き比べて、どうしても気後れがしてしまうのだ。

理沙「偉いってことじゃ無くて、皆さん国王陛下の部下みたいなヒトたちなのよ。さっきの社長さんなんかもね。」

興梠「でもう・・・」

理沙「心配だったら葉月姉さんにも一緒に行ってもらえば良いじゃない。勿論あたしもご一緒するけど。」

葉月「いっぺん、話だけでも聞いてからにすれば良いんじゃない?付き合ったげるからさ。」

そこで葉月ママが、助け舟を出してくれた。

興梠「うん、ママが一緒なら・・・」

理沙「じゃ、決まりね。これから千代さんに連絡しちゃいますからね。良いわよね?」

興梠「はい、お願いします。」

それでも未だ怖いのだ。

自分としては、殊に今回のことがあってからと言うものは、世の中の恐ろしさが余計骨身に沁みてしまっており、ちょっとやそっとの事では、全面的に心を許せるところまでは行けそうにないのである。

しかし、このあと注文してあった出前が届き、一人で二人前も食べて満腹になったせいか、正直なものでいっぺんに元気が出て来て、結局三人揃って出かけることになった。

ダンボールを開いて衣装を取り出し、葉月ママや理沙さんにも合わせて多少地味なものを撰び、どきどきしながらタクシーを呼んだのだ。

ビルから出たときもそっと見渡してみたが、この時点では未だマスコミの気配は無かったようだ。

だけど、このままあたしが出入りを続けていれば、それも時間の問題だとは思う。


車の中で窓の月がシグナル音を発し、理沙さんが出てみると再びみどりママだったみたいで、神宮前の方の話はちゃんと通してあるから心配しないようにとのことだった。

それで少しは安心出来たんだけど、話の様子だと、あたしたちがごはんを食べてる間に遠い丹波と、もう十回以上も往復して来てるみたいで、おまけに現在地がロシアだと聞いて、そっちの方の話にはほんとに驚かされてしまった。

ただ、その電話で神宮前の入り口について特別の指定があったらしく、それを理沙さんがドライバーに伝えた結果、車ごと敷地の中に入れたのだ。

古びたコンクリートの門を入るときだけ一応止められたけど、ガードマンみたいな人が二・三人いて、ドライバーさんに何か手渡しながら、車の中をちょっと覗いただけでオーケーだったみたい。

その施設は、都心にしてはよほど広大な敷地を持ってるらしい。

幾つもの建物があり、未だ工事中のものまであるらしく、背の高いクレーンなんかも目にしながら走り、やがて車が止まったのは一ヘクタール近い空き地と言うか裏庭と言うか、北側に大きな古木がたくさんあるところで、反対の南側がちょっとした三階建ての建物だった。

そこにひっそりと出迎えに出てくれていたのは、ちょっと小柄だけどスタイルの良い若い女性で、理沙さんとは顔馴染みだったらしく、言葉すくなに挨拶を交わしただけで、直ぐに先に立って案内してくれた。

理沙さんは吉川さんと呼んでたみたいだけど、グレーのビジネススーツに身を包み、長い黒髪をきりっと纏め上げた後ろ姿には、あたしたち水商売の女とも又違った艶めきを感じ、相当もてるだろうとは思った。

その吉川さんがヒールを小気味良く鳴らしながら先導してくれるのは、どう見ても裏口のようだったけど、結局人目を避けてのことだろうし、それもこれも全部あたしの方の都合から来ていることなのだ。

一階の廊下を進んで行く間、左右の部屋の中に大勢の人の気配を感じたが、結局誰とも顔を合わせること無く二階に上がり、重厚な調度に包まれた立派な応接室に通されて、いよいよ恐ろしい人たちの出番が来たみたい。

 ◆ 目次ページに戻る

  1. 2007/09/13(木) 17:28:24|
  2. 妄想小説 主権国家|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0

自立国家の建設 098

 ◆ 目次ページに戻る

吉川さんがお茶を出してくれている内に秋元千代さんが淑やかに登場して、簡単なご挨拶をしただけで直ぐに本題が切り出された。

全てはみどりママからの要請であり、そのための態勢も充分に整えてあるのだから、安心して希望を言えと言われたのだ。

第一に、このあたしの身柄を保護し、誰にも迷惑の掛からないような居場所も提供してくれる上に、無理なく自立出来るよう全部面倒を見てくれると仰る。

そんな話ってあるかしらと思っていると、隣から葉月ママが代わって質問をしてくれた。

葉月「あのう、恐れ入りますが、それでこの子のほうは何をしたらいいんでしょう?」

そう、そこが一番気になるところなんだもの。

千代「あ、説明不足で申し訳ございません。ほんとに、一切何もなさらなくてよろしいのです。」

葉月「じゃ、ほんとに、毎日ぶらぶらしてるだけでよろしいんですか?」

千代「はい、その通りでございます。」

葉月「それに、この子はほんとに一文無しなんですよ。稼がないとお小遣いだって無いし、お世話になっても、お礼なんか何にも出来ないんですから。」

千代「お礼なんてお考えになる必要はございませんわ。それにお小遣いも差し上げるよう申し付かっておりますから。」

葉月「ほんっとに、只でいただいちゃっていいんですね?」

千代「はい。それで間違いございません。」

葉月「でも、なんにもしないで、お金だけいただいちゃうって言うのも・・・・」

千代「それでしたら、騒ぎが収まるまでの間、マスコミを気にしないで済むような環境でお仕事をなさりながら時間を潰すと言う手もございますわ。勿論選択はご自由ですけど。」

ほら、来た。

やっぱり、何かさせようって魂胆なんだ。

興梠「あのう、そのお仕事って、どう言う・・・」

自分で口火を切ってしまった。

もう、我慢出来なかったのだ。

千代「いろいろございますが、税金のことやら何やらを考えますと、海外の企業と現地で雇用契約をお結びになるのが一番だと考えておりますの。その場合の俸給も現地の口座に振り込まれることになりますが。」

興梠「困ります、海外だなんて。」

千代「その場合でも、あなたご自身はどこにいらしても結構ですのよ。例えば公式の勤務地である外地で休暇をお取りになって、この日本に遊びにいらしたことになされば、日本にいても問題は無いわけですし。」

興梠「そんなあ・・・」

思わず絶句してしまった。

あまりに話が旨過ぎる。

千代「あまり露骨に申し上げてしまいますのもなんなんですが、あなたは、その間も自由になさってらしてよろしいのです。」

興梠「でも、そんなバカな会社、あるわけ無いじゃないですか。」

千代「おほほほ、例えばでございますが、この吉川の勤務するところなども悪くないかも知れませんわ。」

それまで黙ったまま千代さんの隣に座っていた吉川さんが淑やかに立ち上がり、改めてご挨拶なさりながら、とても物慣れた身ごなしでお名刺をくれた。

その洗練された身なりは勿論、口の利きよう一つとっても、すごい切れ者のキャリア・ウーマンみたいだけど、それが、どう見てもあたしとどっこいどっこいの年恰好にしか見えない。

その上、スナック葉月にでも勤めたら、ご指名が殺到するんじゃないかと思えるほど艶めいたルックスなのだ。

聞けばその人の国籍は秋津州で、お名前は吉川桜子さん、お名刺では大和商事広報担当と秋津州財団総裁秘書の肩書きが麗々しく記(しる)されていて、ところ番地は秋津州八雲の郷一の荘と書いてある。

その「会社」の本社は、両方とも丹波の八雲の郷とかにあると言うのかしら。

ただ、お名刺の裏に付け足しのように書かれている住所が、銀座の秋津州ビル三階となっているところを見ると、どうやら普段は理沙姉さんと同じビルで働いているらしい。

顔見知りの筈だ。

思わず理沙姉さんの顔を見直してしまった。

理沙「どうしたの。」

理沙姉さんの目が笑っている。

興梠「だって・・・」

お名刺を持ってつくづく眺めてたら、親切に教えてくれた。

理沙「大和商事さんて凄く大きな会社なのよ。恐らく世界一大きい筈よ。」

興梠「あらあ、そうなんですか。」

正面で吉川さんの綺麗なお顔がにっこりしたみたい。

理沙「そして、その社主が国王陛下なの。」

興梠「あのう、社主って・・・・」

理沙「オーナーって意味よ。で、秋津州財団は知ってるわよね。」

興梠「うん、世界中に只で学校作ってる会社だって聞いたけど。」

理沙「財団だから、会社とは少し違うけど・・・。」

興梠「へええ、そうなんだ。」

理沙「ま、難しいことは措いといて、とにかく、総裁である陛下のご方針で世界中に支所を持ってるわけよ。」

興梠「じゃ、この総裁秘書って・・・・」

理沙「だから、お名刺に書いてある通り、陛下の秘書さんよ。」

吉川さんも理沙姉さんも、二人共にこにこしている。

でも、様子から見ると、千代さんの方がずっと偉いみたい。

興梠「吉川さんて、ほんと、尊敬しちゃいますわ。」

千代「おほほほ、こおろぎさんにも、同じようなお名刺をお作りしましょうか。」

興梠「でも、あたし、秘書だの、広報だのって、なんにも出来ませんし。」

千代「あらあら、正直なお方ですこと。」

興梠「その、何にも出来ないあたしを、何で只で助けてくれるんですか?」

千代「ですから、それもこれも、あなたをサポートせよとのご下命があったからでございますわ。」

興梠「ご下命って・・・、どなたの?」

千代「勿論、秋津州陛下です。」

尤も、千代がこの下知(げち)を直接受けた相手は官邸の京子であり、京子にそれを与えたのは天空のおふくろさまであった。

興梠「じゃ、王さまの命令だって言うんですか?」

千代「はい、陛下に進言なさったのがみどりさまですわ。」

これは、事実だ。

但し、若者自身がノーを言わなかったまでの話だ。

興梠たちには想像も出来ないことであったが、ことにあたって、興梠に対する積極的な対応方針を立てたのは、主としておふくろさまと言う人工知能であったことになるだろう。

興梠「王さま、あたしのことを何か勘違いしてらっしゃるんじゃ?」

今の今まで、国王に憎まれてるとばかり思っていたのである。

それなのに、その国王の命令でこのあたしを保護してくれると言う。

千代「例えばどのような?」

興梠「そこまでは判りませんけど。」

千代「困りましたわねえ。それでは、一番単純で判りやすい選択肢を一つだけ申し上げて見ることに致しますが、お怒りにならずにお聞きいただけますか?」

興梠「はい。今さら何を言われても平気ですから。」

どうせ、あたしなんか、ダーティな「悪の華」なんだから。

千代「おほほほ、それでは遠慮無く申し上げますわね。例えばここに鞄がございまして、中は現金で二千万ほどですが、これをそのまま差し上げると言う選択肢がございます。勿論領収書も不要ですし、そのままお持ち帰りになっていただいてもよろしいのです。」

その人は、吉川さんがテーブルの上に乗せた金属製の鞄を、わざわざ蓋を開いて見せてくれるのだ。

何もかも準備してあったみたいで、確かにそこには大量の札束があった。

情け無いことに、急に喉が渇いて、おまけに心臓までどきどきして来ちゃった。

これだけあれば当分ホテル住まいだって出来るだろうし、いっそ、マスコミから逃れてしばらく海外旅行に出かけたっていいのである。

興梠「ほんとに、これ、もらいっ放しでいいんですよね?」

千代「はい。どうぞ、お持ち帰り下さいませ。」

目の前の上品な美人が、実ににこやかにうなずいてくれている。

狐につままれたような気分と言うのは、きっとこのことを言うのだろう。

もらって帰ったら、木の葉っぱに化けてたりしないかしら。

どう考えても、世の中に二千万も只でくれる人なんているわけが無いのである。

興梠「このお金、どなたのお金なんでしょう?」

千代「国王陛下のお金でございますわ。」

興梠「じゃ、王さまがあたしにくれるって仰ってるんですか?」

千代「さようでございます。」

興梠「じゃ、あたし、これ、いただいて帰ります。」

どう言う反応を見せるのだろうと思いつつ言ってみた。

千代「どうぞ、ご遠慮無く。」

慌てるかと思いきや、相変わらずその表情はにこやかなままなのだ。

言葉に詰まりながら、思わずその顔を、まじまじと見つめ直してしまった。

いったい、どうなってるんだろう。

これじゃあ、ほんとなら謝りに行かなくちゃならない筈の相手から、二千万ものお小遣いをもらっちゃうことになるのだ。

興梠「あのう・・・」

千代「はい?」

興梠「・・・。」

千代「もっとご入り用でしたら、又別にご用意致しますが?」

それなら、もっと下さいって言ってみようかしら。

でも・・・・・・。

興梠「そうじゃないんです。だって気が咎めちゃって、とてももらえたもんじゃ無いもの。」

葉月「そうでしょう。このまま黙ってお金だけもらって帰っちゃったら、あんたのオンナが廃っちゃうわよ。ほんとだったら、逆にお香典たんまり包んでかなくちゃいけないところなんだから。」

葉月ママが、我が意を得たりとばかりに喰い付いて来た。

興梠「うん。」

葉月「だから、もうちょっと千代さんのお話をお聞きしたほうがいいんじゃないの?」

興梠「あたしも、そうは思うんですけど・・・・」

葉月「だったら、そうしようよ。」

興梠「うん、判った。」

葉月が、まるで我がことのように意気込んで千代の方に向き直った。

葉月「あのう、失礼ですが?」

千代「はい、どうぞご遠慮無くお尋ね下さいませ。」

葉月「あのう・・・、要するに、陛下がこの子を見初めたってことなんでしょうか?」

秋津州国王が興梠に恋心を抱いた結果のプレゼント攻勢なのではあるまいか。

千代「おほほほ、もし、そうでしたら私どもにとりましても、とてもお目出度いお話なんでございますが、残念ながら陛下のお胸には今以て大切なお方が棲みついてお出ででして。」

葉月「あのう・・・」

千代「はい、お亡くなりになられたお妃さまのことでございますわ。」

葉月「・・・・。」

千代「それに、陛下ご自身は、こおろぎさまのことを、はっきりとご覧になられたことは無い筈ですし。」

葉月「それもちょっと口惜しいわよねえ。あんたいっぺん顔見せに行ってきなさいよ。」

葉月ママは、あたしの顔をまともに見ながら浴びせかけるのである。

興梠「そんなあ、あたしだって照れちゃうわよ。」

葉月「いまさら、何言ってんのよ、中学生じゃあるまいし。」

興梠「だってえ・・・」

葉月「だって、口惜しいじゃないか。あんた口惜しくないの。」

興梠「うん、ちょっとは口惜しい。えへへっ。」

とんでもないところで、またしても漫談が始まってしまったが、正面の女性はおっとりと微笑みながら、ただ黙って聞いているだけなのだ。

その上品な顔に向き直り、葉月が又も無遠慮に言い出した。

葉月「ねえ、秋元さんもそう思いません?」

千代「さあ、どうなんでしょう。」

相変わらず笑っている。

葉月「だって、この子を見れば、たいていの男はその気になると思うんだけどなあ。そう思いません?」

千代「ですが、陛下はお妃さまと王子さまのご遺骨を、未だに肌身離さずお持ちになってらっしゃるくらいですから。」

葉月「ええっ、それって、いまどき珍しい話じゃないですかあ。」

千代「そうですかしら。」

葉月「と言うか、それだけ純情なのかしら。確か二十三でらしたわよねえ。」

千代「はい、今年の夏で丁度二十三歳におなりでございます。」

葉月「ほんと、二十三にもなって・・・驚いちゃうわあ。」

千代「それに、みどりさまのお話ですと、陛下はご遺骨の入ったロケットを握り締めながら、いつも詫び言を仰っておいでのようですから、とてもほかの女性に心を移される余裕などお持ちでは無い筈ですわ。お食事ですら、やっと召し上がれるようになられたばかりでございますし。」

このあたしを救ってくれようとしているのは、王さまじゃなくて、やっぱりみどりママの方であるらしい。

葉月「まあ、ご飯も食べられなかったんですか。」

千代「十日ほどは、お口もお利きになりませんでしたわ。」

葉月「詫び言と仰いますと?」

千代「結局、ご自身の油断が災いを招いてしまったとのお考えでらして、そのことをお妃さまたちに詫びてらっしゃるのですわ。尤も、よほどお傍近くでないと聞こえないようですけれど。」

葉月「まあ、なんておいたわしい。それだけ情が深くていらっしゃるのですわねえ、ほんとに。」

葉月ママが急に涙声になってるけど、こっちだって鼻の奥の方がつうんとして来て、あっと言う間に涙が溢れてきてしまった。

突然家族を失って、その遺骨を胸に茫然とする若き君主の姿が思い浮かんで来て、ぽろぽろぽろぽろ涙がこぼれて止まらない。

その人は、ご飯も喉を通らないほど深い悲しみの中にいると言うのだ。

それもこれも、もとはと言えば、みんなあたしが原因なんだもの。

あたしのせいで、王さまがそんなに辛い思いをなさってるなんて・・・・。

あたしさえ、あいつを安田に引き合わせていなければ、こんなことにはならなかった筈なのだ。

申し訳なさ、面目なさで、もう胸が一杯になってきて、しまいには声を上げて泣いてしまった。

「ごめんなさい。ごめんなさい。」と言ってるつもりなのに、それがちっとも言葉にはならなかったのである。


結局この日の三人は、お車代まで頂戴して、又後日改めてと言うことで一旦失礼することになった。

自分自身が大泣きしたせいか、ひどく落ち込んでしまって、それ以上、まともな話が出来なかったこともあり仕方がなかったのだ。

みどりママの話では、王さまもあたしに悪意が無いことを判ってくれてるらしいけど、それにしたって遺骨を抱いたまま満足にご飯も食べられないほど悲しんでらっしゃるんだし、れを思うとやっぱり申し訳なくてたまらない。

早くお参りさせてもらって直接お詫びするのが本当だろうし、そうしないと気が済まないのだ。

それにタクシーの中でお車代の中身を見たら、それぞれに三十万円づつ入っていて三人とも息を飲んじゃったけど、理沙姉さんがぽつりと呟いた言葉がとても印象的だった。

理沙「やっぱりあの方って、世界一のお金持ちだったのよねえ。」

葉月「そうなの?ベストテンには入ると思ってたけど。」

理沙「なんでも、ダントツらしいわよ。」

葉月「うっそお。」

理沙「だって、何年か前、国井総理が未だ官房長官の頃だったけど、つくづく仰ってたくらいだもの。」

葉月「へええ、そうなんだ。」

理沙「最近の話だと、それも桁違いらしいわよ。」

葉月「その上、あの国って段違いの軍事大国だって言うじゃない?あのアメリカさんだってぺこぺこしてるって言うし。」

理沙「その軍隊も、全部陛下の私兵だって言う人もいるくらいだし。」

葉月「その上純情で、とっても情が深くって・・・・。」

理沙「確かに情が深い人だとは思うけど。」

葉月「ううう、そこんとこがたまんない。」

葉月ママが大仰に身悶えして見せている。

理沙「うふ。」

葉月「ううう、思いっ切り可愛がって上げちゃいたい。」

理沙「げっ。」

葉月「ほんと、あたしが、もうちょっと若かったらなあ。」

理沙「おほほほ。」

葉月「くそっ、笑いやがったなっ。」

葉月ママがぷっとふくれている。

理沙「でも不思議よねえ。」

葉月「何が?」

理沙「だって、陛下の周りには、美人で有名な侍女がいたわよねえ。」

葉月「うん、あたしも週刊誌かなんかで前に散々見たよ。確かに三人とも凄いような美人ばっかりだった。」

理沙「そう、その上、その三人が三人ともインタビューかなんかで、陛下の侍妾・・・、つまり、おめかけさんよね。三人とも、その侍妾になりたくて王宮に入ったって自分で言ってたくらいだし。」

葉月「そうか。じゃ、今はその三人のおめかけさんが、寄ってたかって面倒見てくれてるってわけかあ。ちきしょうっ。」

ちきしょうはママの口癖なのだ。

理沙「それがそうじゃないのよ。うちのママの話だと、陛下はその三人に全然興味をお示しにならないって言ってたわ。手も握ったこと無い筈だって。」

葉月「うそお。」

理沙「あたしだって、最初信じられなかったわよ。」

葉月「で?」

理沙「うん、いろいろ聞いてみると、それが、どうもほんとらしいのよねえ。」

葉月「へええ、驚いたなあ。」

理沙「うちのママなんか、陛下が女の尻を追わな過ぎるって、一時本気で心配してたくらいだもの。」

葉月「ひょっとして、あっちの方なんじゃないかってかあ?」

理沙「うん、でも、そっちの方の気(け)は無かったみたいだし。」

葉月「ちゃんと結婚して、子供だって生まれてるしねえ。」

理沙「ね。」

葉月「それじゃ、単に身持ちが固いって話なのかねえ?」

理沙「どうしても、そうなっちゃうのよねえ。」

葉月「しかし、そんな男なんてほんとにいるのかねえ。」

理沙「今だから言っちゃうけど、実はあたしも見事に振られてるくらいなんだもの。」

葉月「へえ、何時ごろの話よ?」

理沙「確か陛下が十九になったばかりの頃よ。」

葉月「そうすっと、四年前か。」

理沙「うん。そのころなら、あたしだって未だ若かったからさあ、思いっ切り腕に縒(よ)りをかけてチャレンジしたわよ。お妃さまだなんて最初っから無理だけど、せめて東京での現地妻ぐらいにはって思ってさ。」

葉月「ふんふん。」

理沙「思いっ切りくっついて散々そそって見たんだけど、とにかくお行儀が良すぎちゃってどうにもならないのよ、これが。」

葉月「あんたがそう言うくらいだから、そうとう激しく迫った筈だわよねえ。」

理沙「今から考えると、もう、信じらんないくらいサービスしたわよ。胸なんかも思い切り押し付けちゃったしさ。」

葉月「へええっ、それでも、まるっきり反応しなかったの?」

理沙「うん、その頃は絶対自信あったのにさあ。」

葉月「うん、判るわあ。その頃のあんたって、確か未だ二十二かそこらで通していたものねえ。」

理沙「お客さんが勝手にそう思っててくれてただけよ。」

葉月「ありがたいお客さんよねえ。あはははっ。」

言いたい放題なのだ。

あたしは、先輩たちが勝手なことを喋りまくっているのを、半分はどこか遠いところで聞いていたんだけど、その王さまの意外な一面にはすごく驚かされてしまっていた。

葉月ママも驚いてたみたいだったけど、実際世の中にはそんな男の人もいたんだわねえ。

理沙姉さんですら、綺麗に振られちゃったって言うし、よっぽど純情なのか、それとも・・・・・。

でも、それがこのあたしだったら、王さま、どうするかしら。

やっぱり、あっさり振られちゃうんだろなあ。

まあ、どっちにしても、まるっきり別の世界の人なんだし、あたしには関係のない人だけど。

なにしろ、あたしは噂のダーティ・ヒロインだし、この体を通り抜けて行った男だって一人や二人じゃないんだもの、お妃さまって柄じゃないことぐらいちゃんと弁えてるつもりさ。

だいいち、お妃さまだなんて、そんな窮屈なもの、なりたいとも思わないけど、それでも、まるっきり相手にされないって言うのも淋しいものがあるわよねえ。

男だったら例え妻子持ちだって絶対喰い付いて来るような必殺の手管(てくだ)だって知ってるつもりだし、あたしだったら、こう言う風にして、ああして、こおしてと、かなり際どいシーンが思い浮かび、何だか体の芯に微妙に灯が灯っちゃったらしく、自然に頬が火照るのを覚えた。

とにかくその人は世界一のお金持ちだって言うし、話の様子ではとても純情で、その上世界最強と言われる秋津州の王さまなのだ。

その人の映像なんかは見飽きるほどに報道されていて、テレビを見てれば否が応でも目に入って来ちゃうし、その精悍な風貌だって嫌いなどころか、あたしの好みぴったりなんだもの。

さっきから胸の中では色々なイメージが勝手に歩き出してしまっており、つまりは話題のその人を、男として意識してしまっている自分に今さらながら気付かされたのだ。

その人の胸の中は亡くなったお妃さまで一杯らしいし、いつもお骨(こつ)を身に着けているだなんて、なんて情の深い人なんだろう。

あたしだって、出来るものなら、そんな風に情の深いカレに出会って死ぬほど愛されて見たいもんだわ。

ま、現実にそんな人なんて、そうそういそうもないけど。

頭がぼうっとしてきちゃった。

実際それどころじゃないのに、あたしって、ほんとに馬鹿よねえ。

それに、ヘンなこと考えたりしたら、大恩あるみどりママに睨まれちゃうかも知れないし。

なにしろ、みどりママは猛獣使いなんだし、その上、見ず知らずのあたしを援けてくれようとしてる人なんだから、足を向けて寝ちゃったりしたら、それこそ罰が当たっちゃうよ。

みんなが寄ってたかって「悪の華」だとか何だとか言って騒いでるのに、それでも援けてくれるって言うんだもの、みどりママにだけは、いつか絶対お礼を言いに行かなくちゃ。

未だ二十歳(はたち)でしかない小娘は、ぼんやりととつおいつしていたのだが、理沙姉さんの声が急に降って来て頭の中の幻を見事に蹴散らしてくれた。

理沙「ところで、こおろぎちゃんは、窓の月の使い方は判ってるわよね?」

実は、帰り際に自分専用の窓の月を受け取って来ており、それも、もしお邪魔だったら、そのまま黙って捨ててくれて構わないと言われたのには正直驚いちゃったけど。

興梠「はあい、ファンクションキーで送信先を指定してやるだけでいいんだもん、簡単よお。」

尤も、送信先って言ったって、今のところ、理沙姉さんのほかには千代さんと吉川さんの二人きりなのだ。

それに着信のときは何にもしなくても通じるみたいだし、とにかく単純な操作ばかりなんだもの。

理沙「それならいいけど。」

興梠「それより、今日はお忙しいところ、ご一緒していただいてありがとうございました。」

理沙「いいええ、それもこれも、全部うちのママの希望なんだから。」

興梠「はい、感謝してまあす。」

その後、車を銀座の裏通りで止めて理沙姉さんを降ろし、中央通りを上野方面に向かう。

今日は土曜日でクラブ碧は看板を出さない筈だけど、上野広小路のスナック葉月は立派な営業日だ。

さっきは大泣きしちゃったけど、時間もあるし、ゆっくりお風呂に入れば、まぶたの脹れもきっとひいてくれるに違いない。

葉月「さ、帰ったら、忙しくなるわよう。今日から出れるんでしょ?」

ホステスとして今日から出勤出来るのかと聞かれたのだ。

興梠「うん、明日日曜だし、ゆっくり荷物の整理すればいいから、今日から出るわ。」

もう、腹を括るよりほかは無かった。

ママにすごい迷惑をかけちゃうかも知れないけど、仕方が無い、空元気(からげんき)でも何でもいいから、もういっちょ頑張ってみるかあ。

葉月「よおし、びしびし、しごいてあげるからねえ。あははっ。」

興梠「あんまり、いじめないでよう。」

葉月「あんた、お客さんたちの電話番号削除しちゃったでしょ?」

興梠「うん、きれいさっぱり。」

だいいち、携帯そのものもまるっきり新規で買い換えたものだし、以前のデータなんか全部無視しちゃったんだもの。

今の番号にしたって全く新しい番号なのだ。

あの山内が店に来たのだって、前の番号で掛けても通じないからこそ直接押し掛けて来たのである。

葉月「じゃ、五十人分くらいは、早速、登録し直さないといけないわよね。あとで紙に書いたげるから。」

きっと、あたしが辞めてから来なくなっちゃったお客さんのデータばっかりなんだろなあ。

厄介だけど、これが商売なんだから仕方が無い。

興梠「電話したら、来てくれるかしら。」

葉月「ま、今日中に素っ飛んで来てくれるヒトだけでも五人は固いわね。」

興梠「だったら、いいんだけど。」

口ではそう言ったものの、無論自信が無いわけでは無い。

葉月「もっと自信持ちなさいよ、週明け早々にでも来てくれるヒトなら絶対十人はいるんだから。」

興梠「よっしゃあ、頑張って稼いでお墓参りするぞお。」

葉月「ようし、その元気でお客さん引っ張ってよね。あんたなら国王陛下だって引っ張れるかも知れないんだからさ。」

興梠「あははっ、いくらなんでも、そこまでは無理でしょ。」

「純情な猛獣」の顔がちらりと脳裏をかすめ、自然に頬が火照るのを覚えた。

こりゃいかん、相当意識しちゃってるわ。

葉月「こらこら、最初からそんな弱気でどうすんのよ。あんたは、葉月の興梠ちゃんなんだからねえ。」

車中の会話では、今日からでもスナック葉月のスーパースターが復活する筈だったのである。


帰り着いたのが四時ごろだったから、商売柄早速お風呂だ。

久し振りにのんびりとした気分で浴槽に浸かることが出来て、じんわりと開放感が湧き上がって来る。

ここ、半月ほどはマスコミのせいで、気の休まるひまも無かったのである。

ここなら遠慮も要らないし、風呂上りにママに倣ってすっぽんぽんのままで冷蔵庫を漁ってると、遠慮の無い台詞が追いかけて来た。

葉月「あんた、ほんっとに綺麗な体してるわよねえ、あいかわらず。」

興梠「えへへっ。」

葉月「ほんとに染み一つ無いものねえ。それに足が長くて、あんたの場合特に膝から下がすらっとしてて、まったく惚れ惚れするような脚線美よねえ。」

興梠「ありがと。」

葉月「まっしろで、すべすべで、お尻なんかきゅっと上がってて・・・・、こんちくしょうっ。」

うしろから、タオルが飛んで来た。

興梠「うふふっ、まだまだ咲(さき)ちゃんにも負けてないでしょ。」

咲ちゃんとはママの一人娘のことで、ママが十八・九で生んでる筈だし、もう高校二年になってると聞いた。

葉月「うん、咲子だって、かなりいい線いってるわよ。」

興梠「最近会って無いけど、大きくなったでしょうねえ。」

コップに移した生ジュースが喉元に心地良い。

葉月「うん、もう、あんたより大きいくらいよ。」

興梠「へええ。」

葉月「それより、あんたのおっぱいって、どうしてそんなにかっこいいんだろ。」

興梠「あはっ。」

葉月「それに、普通より上に付いてんのよね、あんたの場合って。これ、どう見ても普通より二センチは上に付いてるじゃない。こんちきしょうっ。」

ママが思い切りわしづかみに来た。

興梠「痛いっ、もう、ママったらあ。」

葉月「ま、これもうちの最大の戦力なんだから、しゃあない、このくらいで許しといてやろう。」

興梠「ありがと。」

葉月「うん、いい子だ。ところで今日は初店(はつみせ)なんだから、思いっ切り決めてよね。」

無論、メイクやコスチュームのことだ。

興梠「はあい。」

まったく、いいコンビなのである。

 ◆ 目次ページに戻る

  1. 2007/09/16(日) 14:02:01|
  2. 妄想小説 主権国家|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0

自立国家の建設 099

 ◆ 目次ページに戻る

その後、一時間ほどして、あたしの方は少し早めの出撃準備を終えていた。

久し振りのお仕事だし、何か手違いがあってもいけないと言う思いが強く、メイクにも身拵えにも十二分に神経を遣った結果なのだ。

開店には未だ相当時間があることだし、姿見に映して最後のチェックを入れていると、今になってのんびりメイク中の批評家から、なかなかの高得点を頂戴することになった。

葉月「ふむふむ、なかなかよろしい。」

興梠「ありがと。」

葉月「大分、気合入っとるねえ、キミ。」

興梠「ふふふ。」

葉月「そう言えばその濃紫(こむらさき)のマキシ、あんたの決めの衣装だったわよね。それ、癪に障るぐらい似合っちゃうんだもんねえ。」

その豪奢なロングドレスはくるぶしが隠れるほどに長い丈を持ち、幾分タイト気味のスカート部分で大きく開いたバック・スリットが、妖艶なムードを一層際立ったものに仕上げている。

ホルターネックが、かなり深めに開いたその胸を実に豪華に演出してくれている上、後ろ首の結び目がやや長目に用意されており、それが純白の背中を駆け下ることによって、格調高いフォーマル感を遠慮がちに主張している。

このデザインの特徴ではあるが、胸と言わず肩と言わず、背中までも大きく開いてしまっており、胸の膨らみのあたりなどは、首から吊り下げられた僅かな布地が縦になって覆っているのみで、正面から見てさえ真っ白な乳房の両端が今にもこぼれ出さんばかりだ。

姿見の中の女体がほんの少し身動きするだけで、艶やかなサテンの布地越しに腰周りの稜線をくっきりと浮き立たせてくれており、裾回りにかけてのドレープ性にこそ欠けるものの、今一番のお気に入りの衣装には違いない。

耳元では、数珠繋ぎのダイヤが三本も揺れていて、これがまたとても優雅で大好きなのだ。

勿論イミテーションに決まってるけど、それでもお店のフロアでは充分な煌めきを放ってくれると思う。

葉月「じゃあ、あとはお得意の九センチのピンヒールだな。」

興梠「ふふふ。」

葉月「あんなの履いたら、あたしなんかへっぴり腰になっちゃうのに、よくあんな風に平気で歩けるわよねえ。」

背筋をしゃんと伸ばし、膝も曲がらず、見てるだけで元気になるほど颯爽と歩くのだ。

興梠「別に、普通に歩いてるだけだわよう。」

葉月「ちゃんと用意出来てるかな。」

興梠「もう、玄関に出してあるわ。」

葉月「よろしい、良く出来ました。よだれ垂らして喜んじゃう人だっているんだからね、お嬢さん。」

興梠「はあい、ちばりまあす。」

相変わらず、息の合った漫才をやっている。


さてと、ママが用意してくれたメモを見ながら、お客さんたちの電話登録に掛からなくちゃ。

めんどくさいなあ。

そうだ、いっそ、こっちからコールを入れて、相手側の反応を見てから登録することにしようっと。

以前のときは、あまりに多くなり過ぎて始末に困っちゃったしなあ。

それに、この際だから、こっちの電話番号だって変えた方がいいだろうし、などと考えていた矢先、問題の電話が鳴ったのである。

モニタを見ると、今一番話したくない相手だった。

あの性格だから無視してもちょっとやそっとじゃ諦めてくれないだろうし、早速明日にでも電話ごと換えちゃおっと。

やっぱり携帯は二本必要だしなあ。

あたしには、例のお車代の三十万があるのさ。

興梠「はい。」

安田「おい、今、何処にいるんだ。」

興梠「あなたに申し上げる筋合いはございません。」

思い切り切り口上で冷たく突き放してやった。

直ぐ隣にいた葉月ママが早速気付いたみたいで、承知しないとばかりに、らんらんと目を光らせている。

安田「うん、悪かった。最後に頼みがあるんだ。」

興梠「あたし、一文無しなんですけど。」

どうせ、カネなんだろ。

安田「いや、違うんだ。実はさっき手記を出すことに決まってさあ、名前を貸してもらいたいんだよ。」

興梠「なに、それ?」

安田「だから、お前の名前で手記を出して・・・・、お前の写真なんかも載せることになってるんだ。」

とんでもないことを言い出した。

興梠「ふざけたこと言わないでよ。」

安田「まあ、そう言わないでさあ。」

興梠「まったく、どこまで情け無い男なんだろ。」

実際、前にそんな話があって、きっぱりお断りしたつもりだったのに、裏の方でこそこそやってたから、もういっぺんぶち壊してやった筈なのに。

どうも、様子では、今になってその話が復活したらしい。

安田「もう原稿なんかも出来ちゃってるし、お前さえ、うんと言ってくれれば、なにもかもうまく行くんだからさあ。」

興梠「ふざけんじゃないわよ。」

安田「それじゃお前、店が潰れちゃってもいいって言うのか。」

これまた、不思議なことを言う。

興梠「だから、あたしには、もう関係の無い話でしょ。」

安田「そうは言わせねえ。だいたい、こんな風になったのも全部お前のせえなんだからな。」

興梠「どう言う理屈よ。全部あたしのせえだなんてっ。」

安田「だからよう、お前につぎ込んだせえなんだよ。それに今度のことで、お前目当てのマスコミ連中が大騒ぎしやがるからよう。」

バカヤロウ、そいつ等が大騒ぎしてるからこそ、そんないんちき手記なんかでもカネになるんだろうが。

そうでなきゃ、そんなもの、カネ出して買うような物好きなんて一人もいやしないわよ。

興梠「それが、一人前の男の言うことかよ、まったく。」

愛想もこそも尽き果てるとは、まさにこのことだったろう。

安田「なあ、いい値で売れるんだからよう。」

興梠「・・・。」

安田「な、お前さえ、文句つけなけりゃ、それで済むんだからさあ。」

興梠「いい加減に、そのお前って言うのやめなさいよ。今じゃ、赤の他人なんだから。」

安田「あ、ごめん。もう言わないから。」

興梠「・・・。」

安田「なあ、頼むからさあ。」

猫撫で声を出してやがる。

今さら、そんな甘い手に乗ってたまるかよ。

興梠「・・・。」

安田「なあ、もう前金もらっちゃってるんだからさあ。」

興梠「いやよ。絶対いやだから。」

安田「もう、絶対これっきりにするからさあ。じゃないと店が潰れちゃうんだよ。」

興梠「・・・。」

安田「ほんとに潰れちゃうんだよ。十日の手形が落とせないんだ。」

今日は六日の土曜日だ。

外は師走の風が吹いてるだろうし、それはあたしだって同じことなのだ。

気が付けば、その外が妙に騒がしい。

ママが少しだけ窓を開けて下を覗いてるけど、開いた隙間から相当な騒音が入ってきており、そうっと窓に近付いて覗いてみると、かなりの数の連中が集まってきているようだ。

ごついカメラも見えてるし、車も何台か止まってて、もう交通渋滞が始まっちゃってる。

自然に苦笑いが出てしまった。

あの人たちも商売で必死なんだろうし、これから何時(なんじ)まで粘る気か知れないけど、ほんとにご苦労なことだわね。

ご近所さまたちも何事が起きたかと顔を出し始めてるみたいで、この分じゃ野次馬だって直ぐに集まって来ちゃうだろうし、この騒ぎはママも予想以上だったらしく呆気に取られてるみたいだ。

とても、商売どころの騒ぎでは無い。

もう駄目だ。

こんなのが毎日続いたら、流石のママだってバンザイするしか無いに違いない。

このビルにには、ほかにもたくさん同業者が入ってるんだから、当然そっちからの苦情だって殺到しちゃうだろうし。

安田「なあ、ほんとにこれっきりにするからさあ。」

耳元からは相変わらず情け無い声が飛び込んで来ており、ばからしさ、腹立たしさで、一瞬胸の中で何かが弾けたような気がしたのである。

興梠「いくらあったら足りるのよ。」

我ながらドスの効いた低音だった。

安田「えっ?」

興梠「だから、全部ひっくるめていくらあったら足りるんだって聞いてんのっ。勿論、手記だかなんだかの違約金も入れてさ。」

安田「じゃ、金作ってくれるのか。」

興梠「とにかく、その手記とか言うヤツも破談にしてからの話だけど、どっちにしても一筆入れてもらうからね。」

安田「うん、金さえ作ってくれるんなら、なんでも言う通りにするよ。」

興梠「だから、全部でいくら必要なのよ。」

安田「ざっと、四千、い、いや五千万あれば・・・・、でも、そんな大金、おま・・・、いや律子さんに作れるかなあ。」

興梠「余計な心配よ。こうなったら身売りしてでも、きっちり五千万作って届けてやるから大人しく待ってなさいよ。」

安田「ほ、ほんとかよ。」

興梠「あんたとは違うわよ。もし出来なかったら、生きちゃいないんだから。」

本気だったのだ。

安田「ちょっ、ちょっと待てよ。」

興梠「とにかく、携帯握って待ってろっ。」

胸の中で煮えたぎる何かを、電話に向かって叩き付けるように怒鳴ってしまっていた。

安田「う、うん。判った。」

思いっ切り電話を切ってから、ママの顔を見たら真っ青になっている。

興梠「ママ、ごめん。」

葉月「ど、どうするのよ。」

あんなに頼りがいのある人だった筈なのに、今はもうおろおろするばかりでまったく顔色(がんしょく)が無い。

それに比べてこっちは妙に神経が高ぶって、もう矢でも鉄砲でも持ってきやがれって言う心境なのだ。

興梠「こうなったら身売りするしかないでしょ。」

葉月「み、身売りって・・・」

興梠「うん、ちょっと待って。」

葉月「う、うん。」

手は、一つしかない。

バッグから窓の月を取り出して、それを見てほっとしてるようなママを尻目に、ファンクションを押した。

ほんの数秒で反応があり、正直こっちだってほっとしたわよ。

窓の月「はい、秋元千代でございます。あら、どうなさいましたの?」

モニタでは、相変わらず上品な美女が微笑んでいた。

直ぐ隣には、吉川さんの顔も見えている。

興梠「あのう、情け無い話なんですけど、どうしても今夜中にお金が必要になっちゃいました。」

千代「承りました。いかほどご用意すればよろしゅうございましょうか?」

千代さんは、頼もしくもびくともしない様子だ。

興梠「すいませんが、五千万なんです。」

五千万なんて自分にとっては目も眩むような大金だし、昼間千代さんが出して見せてくれたのは二千万だった筈だ。

あと三千万なんて、いくらなんだってそんな簡単に揃うとも思えない。

最悪は小切手でも仕方が無いか。

千代「かしこまりました。ご様子では、現金の方がよろしゅうございますわよね。」

興梠「その方が助かります。その代わりと言ってはなんですけど、あたしの命はそっくりそちらさまにお預け致しますから。」

千代「おほほほ、そんなことお気になさらずに。ただ、現金と言うことになりますと、もうこの時間のことでございますから、多少お待ちいただくことになりますが。」

画面では、吉川さんが何かを確認するように千代さんにうなずき返している。

興梠「はい。今夜中に松が谷まで届けなくちゃならないんですが、表にうるさいのがたくさん来ちゃってるものですから。」

松が谷には、スーパー・ヤスダがある。

千代「あらあら、それはお困りでしょう。それでは直ぐにお引っ越しなさいますか。」

興梠「でも、こんなに急でだいじょぶでしょうか?」

千代「勿論でございます。人手も車も全て揃っておりますので、どうかご安心を。」

興梠「では、すいませんけどよろしくお願い致します。」

千代「承知致しました。ただ今、お荷物用の車をお出ししたところでございます。」

興梠「助かります。」

千代「お荷物は一切うちの者たちだけでお運びしますので、それが済むまではお部屋の方でお待ち下さい。」

うちの者たちと言うところを見ると、最低でも二人は手配してくれてるみたい。

尤も、荷物と言ったって高々ダンボールが五・六個でしかない上、どれもエレベーターに入るものばかりだし、現にあたしが頼んだ知り合いの赤帽さんなんか、この部屋まで一人で運び上げてるくらいなのだ。

あっと思った。

ここにいることを洩らしたのは・・・・・。

興梠「わかりました。」

千代「こおろぎ様は別の一台にお乗りいただいて、いっそ、そこから堂々と松が谷に向かわれたら如何でしょう。」

興梠「あら、それじゃパレードになっちゃいますね。」

千代「さようでございます。いかがでございましょう?」

堂々と出て行けば大喜びで付いてくるに決まってるし、スナック葉月の開店までには未だ間があるんだし、そうすれば、少なくともこの辺一帯だけは、きっと静けさを取り戻せるに違いない。

興梠「はい、あたしも、それが一番だと思います。」

千代「お荷物用のお車だけは、早めに着くと思いますので。」

それじゃ、その前に着替えなくちゃ。

興梠「それで、松が谷のあとの行き先の方は?」

千代「先ほどお会いしたところに、お部屋をご用意させていただいておりますので、お荷物の方だけは先に運ばせて置きましょうね。」

興梠「よろしくお願いします。」

ここに来て、込み入った事情についてもようやく説明することが出来たのだが、画面の向こうの千代さんは、あたしの舌足らずの説明をとても冷静に聞いてくれて、大よそのことは理解してもらえたと思う。

興梠「ほんとにお恥ずかしい話なんですが。」

千代「いいええ。」

興梠「こんなざまじゃ、みどりママに聞こえたら、きっと叱られちゃうでしょうね。」

千代「いえいえ、大丈夫ですよ。それはそうと一つお願いがございます。」

何故か、ぎくっとしてしまった。

内心ずっと恐れていた条件とやらが、いよいよ飛び出して来るのかしら。

でも、あたしは命を預けるとまで言ってしまっているのだ。

興梠「はい?」

千代「ただ今のお召し物はお召し替えなさらず、そのままでお出まし下さいませ。」

お、お出ましときたよ。

興梠「でも、外はけっこう冷えてますし、あたし、まともなコート持ってませんから・・・。」

この豪華過ぎるドレスに対して、違和感の無いほどのコートなど持ち合わせてはいないのだ。

千代「いえ、それもご用意させていただいておりますから。」

興梠「あらまあ、何から何まで・・・」

千代「このあとの松が谷でのことも考えますと、どうせなら、この際、出来るだけ豪華な演出を心掛けたいと存じまして。」

なるほど、あたしが惨めな思いをしないよう気を遣ってくれてるわけか。

まあ確かに、このあたしを無一文で叩き出してくれたあの家(うち)に、みすぼらしいかっこで顔を出したくは無いしなあ。

時間によっちゃ従業員だって残ってるだろうし、うるさがたのパートのおばちゃんなんかに笑われちゃうのもハラ立つし。

興梠「でも、引っ越しにはまるっきり不向きな格好なんですよ。」

千代「おほほほ、さきほどからずっと拝見させていただいておりますが、大変良くお似合いでいらっしゃいますわ。それにお引っ越しと言いましても、ご自分で汗をおかきになるようなことは決しておさせしませんから。」

興梠「判りました。こうなったら、もう何もかもお任せしますから。」

何だか黙って聞いてると、まるっきりお姫さま扱いだし、それに、どう転んだって殺されちゃうことは無いと思う。

千代「キャッシュの方もただ今吉川に持たせますので、何ごともご遠慮なくお申し付け下さいませ。」

興梠「あら、吉川さんが来てくれるんですか。それなら安心です。」

千代「あたくしの方も、このままこちらで待機させていただいておりますので、もしもの節はなんなりと仰って下さいませ。それでは、のちほど改めまして。」

モニタが真っ黒になって静まったあと、何だか一気に力が抜けて行くような気がした。

さあ、大変だ。

もうちょっと経つとテレビカメラが待ち構える中を、胸を張って出て行くことになるのである。

今までの例だと、ものすごいフラッシュが焚かれちゃう筈だ。

こうしちゃあ、いられない。

メークもコスチュームも、もう一回チェックしとかなくちゃ。

そわそわと実に落ち着かない気分だったのだ。

その後、三十分ほどで第一便が到着し、作業員が二人も姿を見せてくれた。

直前に吉川さんから通信が入り、画面で担当者の顔を見せてもらっていたこともあって、全ては淀みなく進行し、路上では盛大にフラッシュが焚かれる中、搬出作業は呆気無く完了しちゃった。

窓からこっそり見ていたら、積み込んだのは、乗用車に毛の生えたくらいのライトバンに見えたけど、それで充分だったみたい。

運転席には一人がずっと残ってたみたいだったけど、マイクを散々突きつけられても、一言も喋らずに走り去ってくれたようだ。

どうやら、一部があとを追って行ったようだが、マスコミの数は減るどころかさっきよりかえって増えてる感じさえある。

まったく、どこまでしつこいんだろう。

でも、これでもう、自分の体一つを始末すれば良くなったのだ。

ママと二人で、珍しく神妙な顔付きで語り合っているさなか、ストールと一緒に見事なファーコートを携えた吉川さんが顔を出してくれたので、その先導で勇躍部屋を出た。

四十がらみのごつい男性がダークスーツをびしっと決めて、二人もガードしてくれている。

「ママ、落ち着いたら絶対連絡するから。」

「うん、わかってるわよう。」

一瞬、ここには二度と戻れない気がして哀しかったけど、気のせいかママの目にも涙が滲んでたみたい。

一旦出たら最後、明日の運命も知れないけれど、あたしにとって出陣には違いない。

下では多数のカメラが待ち構えていることを意識して、コートはわざと着なかった。

上半身が多少肌寒かったけど、ショール一枚羽織らずに、目一杯見栄を張ってエレベータに乗ったのだ。

とにかく、孔雀のようなこの姿が明日から繰り返し報道画面に登場するかと思えば、かえって誇らしい気分にさえなってくる。

実際こんなときは、出来るだけ地味な格好で、とことんしおらしい女を演じて見せた方がいいに決まってるけど、それも、もういいや。

これで一層反感を買ってしまうだろうし、ダーティな評価もさらにうなぎ上りだと思うけど、どうせあたしは、あんたたちマスコミに言わせれば「悪の華」なんだから、派手に咲いて見せてやろうじゃないの。

エレベータを降りた途端、思ってた以上のフラッシュの嵐だった。

そこから先は内部通路がエントランスまでまっすぐに伸びており、路上の連中にとっては絶好のカメラアングルだろうし、こっちだって百も承知でこの姿で降りて来たのだ。

路上に出るまでのたった数メートルが女の花道だと思いながら、二・三歩踏み出しては見たものの、一気に寒気が肌を刺してきて、思わず傍らの吉川さんに救いを求めてしまっていた。

なにしろ、上半身が裸同然なのだ。

すかさず着せ掛けてくれたボリューム感たっぷりのロングコートは、フラッシュの放射の中で見事な光沢を放ち、見るからに高級感に溢れていて、とても豪華なものだった。

意外なことに、別途に待機していたらしい新手(あらて)の男性が三人もガードに加わってくれて、押し寄せるマイクの荒波を掻き分けながら、やっとの思いで目指す車の後部座席に辿り着いた。

用意された車は見るからに重厚な造りの高級車で、それが二台も揃っていたことにも驚かされたけど、その上、ガード役の五人の他にも、それぞれのドライバーが車中にとどまっていたらしく、結局、神宮前の方では都合七人もの男手を派遣してくれたようだ。

あたしなんかの勝手な都合のために急遽駆り出された挙句、黙々と働いてくれている人たちはこれで十人を超えてるみたいだし、お金のことと言い、これほどの動員能力と言い、やっぱり千代さんのグループは不思議な力を持ってるみたい。

こっちの車の助手席にガードの一人が乗り込み、あたしの隣には吉川さんが座った。

残りの人たちは、きっと後ろの車なのだろう。

走り出したときに電話してあることだし、安田は大喜びで待ってる筈だ。

昭和通りは思ったよりがらがらで車は快調に走り、マスコミの車も大勢付いて来てるみたいだけど、心配だったのでママに電話で確認してみたら、お店の前はすっかり静かになったみたいだった。

わざわざ、引っ越し荷物の搬出作業まで見せ付けてやったのだから、これ以上張り込んでも無駄なことが判ったのだろう。

運転手さんは目的地への道順を良く知ってると言うので、こっちはこれからのことをもう一度頭の中で整理して置かなくちゃ。

打ち合わせでは、安田と向き合ったら、吉川さんを紹介して、あたしは黙ってることになってるけど、吉川さんは頭は良さそうだけど、若いし上品過ぎて甘く見られちゃうかも知れない。

それでなくても相手は女の腐ったような人間なのだ。

大人しくしてたら、それこそ何を言い出すか判ったもんじゃないし、そうなったら、あたしが直接当たるほか無いんじゃないかしら。

それにしても、なんであんな男に惚れちゃったんだろう。

最初は、まじめで大人しくて、その上頼りがいのある人だと思ったのに、まったく、ここまで情け無い人だったなんて夢にも思わなかったわよ。

どっちにしても、全部今夜で済ませてしまいたいけど、そうも行かないかも知れない。

あ、もう、近くだ。

まるで金魚の糞みたいな連中の車を引き連れて裏通りに進み、やがて見たくも無いスーパー・ヤスダのちっぽけなパーキングに入った。

着いてみると、前以て二台の車両が先着していて巧妙にブロックしてくれており、これも全て予定の行動だったらしく、こっちの車はその二台の間にするりと潜り込むことが出来た。

そこには、ジャンパースタイルの作業着姿の男たちが、十人ほどもまったく新たに登場しており、その人たちが結界を結んで厳しくガードしているため、マスコミのマイクはほとんど近づけず、少し離れたところから押し合いへし合いしながらカメラを構えている。

店のシャッターは降りてたけど、中は未だ作業中の筈で、あちこちからかなりの光が洩れて来ており、今、端っこの通用口のドアが開いてあの男が顔を出したところだ。

それを確認してから車を降りたのだが、黒服の一人が恭しくドアを開けて待っていてくれるし、まるで貴婦人にでもなったような気分で、嬋娟たる立ち姿を思う存分見せ付けてやったわよ。

凄いほどのフラッシュが焚かれ、周囲一帯が一気に騒然として来る中を、豪華なロングコートを羽織り、ダイヤストーンのイヤリングを煌めかせながら吉川さんと一緒に颯爽と歩んで行く。

黒服が五人、黙々と付いて来てるけど、皆さん黒いレザーの手袋をはめ、中の一人が中くらいの鞄を提げてるところを見ると、きっと中身はあの五千万に違いない。

考えてみると、今さらながら惜しくなってきちゃった。

これだけあったら、あれもして、これもしてって、きりが無いほど次々と出て来ちゃって我ながら呆れるくらいで、やっぱりあたしって生まれついての貧乏人なんだわねえ。

その間あたしたちの周囲を例の作業着姿の人たちが厳しくガードしてくれて、難なく通用口をくぐり、事務所兼応接室に通ると、あの男はおどおどと、こっちの顔色を窺いながら席を勧めるのだ。

この陣容に度肝を抜かれていることは確かだろう。

ごつい黒服が五人も、黒い皮手袋を嵌めてあたしと吉川さんの後ろにずらっと立ったのだ。

その上、おもてには十人からの加勢がいる。

これも吉川さんの演出なんだろうが、これじゃあ、大抵の人は恐れをなしてしまうに違いない。

安田が自分で空っ茶をいれて向かい側に座るのを見計らい、吉川さんを友達として紹介したあとは、打ち合わせ通り口を閉ざすことにしよう。

吉川さんが軽く会釈しながら名刺を置き、目配せ一つで例の鞄を机の上に置かせ無言でその蓋を開いた。

勿論、中は福沢諭吉さんで満員だ。

安田の顔色がみるみるうちに変わってしまい、最初きょときょととこちらの顔を見ていたけど、やがてそろりと手を伸ばし、札束の幾つかを手に取ってぱらぱらとめくっている。

見ると顔なんか土気色(つちけいろ)だし、その上微かに手が震えているのだ。


しばらく黙って見ていた吉川さんが、やがて宣言した。

「もう、いいでしょう。」

それを合図に黒服の一人が全ての札束を鞄に戻し、音を立てて蓋を閉めてしまった。

安田「ど、どうするんですか?」

吉川「全てのことを確認出来てからお渡しするよう申し付かっておりますので、悪しからず。」

安田「はい?」

吉川「一切の債権債務及び内縁関係の不存在を謳った文書を要求してある筈ですが。」

内容は別にして、「一筆入れてもらう。」と言ったのは確かにこのあたし自身なのだ。

安田「は、はい、何でもハンコ押しますから。」

吉川「例えば手記の一件などは、どう処理されましたか?」

安田「い、いえ、未だ連絡が取れないものでして。」

吉川「それではお話にもなりませんわね。」

安田「必ずけりをつけますから。」

吉川「だいたい、あなたの仰ることは誠意が無さ過ぎますので、そう仰られても素直に信じるわけには参りませんわ。」

安田「え?」

吉川「手記の件一つ取ってもそうですが、もう少しまともなお話をお聞かせいただかないと、これ以上のお話し合いは無意味かと存じます。」

安田「ちょっ、ちょっと待って下さいよ。確かに事実に反することも言っちゃいましたけど、その話が進んでるのは本当なんですから。」

吉川「少なくとも、前渡し金を受領済みだと言う点は虚偽でございますわね。」

安田「は、はい。」

何だってえ、その話も嘘だったのかあ。

吉川「それに手記の件の商談自体、未だ妥結してるわけじゃありませんわよね?」

いったい、吉川さんたちはどうやって調べてきてるのだろう。

調べようったって、そんな時間なんて無かった筈だし、まったく不思議だったのだ。

安田「は、はい。」

吉川「では、破談になさるのも簡単ですわよね。」

安田「はい、早速断りますから。」

吉川「いずれに致しましても、当方がお約束のモノを用意済みであることはご理解いただけたものと存じますが?」

五千万作って渡してやるって「約束」しちゃったのもこのあたしだ。

なんて、バカなんだろ。

安田「はい、勿論です。」

ついさっき、手を震わせながら散々確認した筈だ。

吉川「私どもの誠意はお見せしましたが、そちらさまの方のご用意がお出来にならないご様子ですので、また改めてのこととさせていただきましょう。」

黒服の一人が、無言でテーブルの上から鞄を下ろしてがっしりと持ちかえた。

無論、そのまま持ち帰ろうと言う態勢なのだ。

安田「えっ、ちょっと、どう言うことですか。」

一瞬、安田が気色ばんだ。

必死なのだろう。

吉川「・・・。」

吉川さんは冷然たる無言だ。

そのとき、直ぐそばの電話が唐突に鳴り響いた。

安田は一瞬びくっとしたが立つ気配は無い。

誰かが別の場所で取ったようで、間も無くドアがノックされ、古手のパートの一人が顔を出した。

パート「失礼します。社長、扶桑銀行の支店長さんが急用だって言ってますけど。」

扶桑銀行は有数の都市銀行であると同時に、スーパー・ヤスダのメインバンクなのである。

安田「ちょっ、ちょっと失礼します。」

吉川「どうぞ。」

安田は慌てて別室に去ったが、無論、この部屋で電話に出ることもボタン一つで可能だ。


結局この電話で、安田社長は死ぬほど仰天させられることになる。

顔馴染みの支店長はかなり慌てている様子で、その一言が安田をして心底から戦慄させてしまうのだ。

なんと、大和商事さんとわざわざ事を構えるような人とは、取引出来ないと言われたのである。

彼自身が自分の首が飛ぶと言って恐怖しており、安田も事の重大さに色を失ってしまった。

そう言えば、さっきはろくに見もしなかったのだが、あの名刺には確かに大和商事云々の肩書きがあった。

それに、その口振りから見ても、相手が相手である以上、ほかの銀行も似たり寄ったりの反応をするに違いない。

このタイミングで一斉に資金の引き上げに動かれでもしたら、それこそウチは一巻の終わりだ。

いや、銀行側のスタンスに関する噂が流れただけで、もう、おしまいなのである。

そうでなくても、既に大幅な資金ショートが発生しつつあり、来週早々の十日の手形だって、せめて大口のものだけでも、ジャンプしてもらおうと必死に動いていたところだったのだ。

そのあとの十五日期日の大口もあることだし、直ぐに二回目の不渡りとなってしまう。

その上、支店長は手記の一件も耳にしているらしく、個人的なアドバイスだとして微妙なことを言っていた。

今度のような手記を云々する出版社にしても、今後は、独立系のごく小規模のところしか相手にしてくれない筈だと言うのだ。

何故だと聞いてみたところ、逆に秋津州商事の広告宣伝予算がいくらなのか知らないのか、と言われてしまった。

いっとき、メディアを騒がせたその予算額の桁外れの巨大さは流石に記憶に残っている。

何せ、あのトヨベ自動車の百倍だと言うではないか。

文字通り、桁違いの広告宣伝費なのである。

詰まり、秋津州商事は広告宣伝を扱うほとんどの業界において、桁違いに大きなクライアントだと言うことになるのだ。

支店長は、この場合の秋津州商事と言う企業が、実質的にどこの傘下にあるのかを考えれば自ずと答えは出て来る筈だと言い、当然、今日を境にメディアのスタンスも手の平を返すように変わる筈だと断言していた。

事実、あの吉川とか言う女の名刺には問題の秋津州財団云々の文字まで見えていた。

しかし、律子がまたどう言ういきさつで、あいつらの庇護を受けることになったのか、どう考えても不思議でたまらない。

いわば、敵同士ではないか。

電話で言っていたように、身売りしたとでも言うのか。

それが本当なら、その場合の身売り先については、いまさら言うまでもないだろう。

いずれにしても、現実にやつ等は律子のバックについているのである。

律子を攻撃すると言うことは、同時にやつ等をも敵に回すことを意味するのだ。

安田は悄然と元の席に戻ったが、無論状況が好転する筈も無い。

支店長のさっきの口振りから見ても、やつ等を怒らせたりしたら、うちの店なんか恐らく電話一本で潰されてしまうに違いない。

相手はそれほどまでに強大な存在であり、もしそうなったら、一切の対抗手段が失われてしまっていることを、今さらながら思い知らされたのである。

それに、こちらから攻撃を仕掛けるような愚かなことさえしなければ、その強大な相手は鼻も引っ掛けてこないだろうと言う。

とにかく、平謝りに謝ってしまった。

真実、後悔したのである。

向かいに座った律子は、小面憎い顔を少し上向き加減にしたまま一切反応しなかったが、吉川と言う女の方は多少態度を和らげてくれて鞄を渡してくれた。

受け取りは要らないと言われ、中は何よりも強いキャッシュだし、相手の言うがままに、来週早々に銀座の秋津州ビルに印鑑証明書を持参し、先方が用意してくれる書類に判を押すことを心から誓ったのである。

口約束ではあったが、不思議なことに吉川女史がそれで承知してくれたのだ。

尤も、例え口約束であろうと、それを破れば結果は目に見えている。

 ◆ 目次ページに戻る

  1. 2007/09/18(火) 22:03:47|
  2. 妄想小説 主権国家|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0

自立国家の建設 100

 ◆ 目次ページに戻る

さて、律子にとっての長い一日は未だ終わったわけでは無い。

例によって、相当数の金魚の糞をぞろぞろと引き連れたまま都心を走り、やがて神宮前の対策室に到着して今やっと一息ついたところだ。

金魚の糞たちは、無論この敷地内への進入は許されない。

改めて千代さんに対面して心からお礼を言ってから、用意されていた三階の個室に入ったのだが、その部屋まで案内してくれたのは迫水(さこみず)美智子と言う女性で、それが驚いたことに顔も体つきも何から何までこのあたしにそっくりなのだ。

まったく薄気味悪いくらい良く似ていて、おまけに声までそっくりで、これじゃあ例え葉月のママだって見分けがつかないと思う。

数億人の秋津州人の中からわざわざ選抜されてきたって言うけど、未だ十八になったばかりだと言うのに、どうやらこのあたしの影武者兼世話係りを仰せつかったらしい。

影武者を務めるくらいなんだから、当然ある程度似てなくちゃ勤まらないのは判るけど、それにしたって、こんなに似てる人がいるなんて、最初に見たときは、もう口あんぐりだったわよ。

でも、お国では日本人の子孫ばっかりいっぱい住んでるらしいから、捜せばこんなそっくりさんが見つかるのかしらねえ。

とにかく、とても妙な気分なのだ。

千代さんの話では、この子には難しい話まで相当細かく教え込んであるらしく、大抵のことなら用が足りるだろうと言うし、それならそれで、こっちも年下の子の方がかえって気が楽でいいんだけど。

そうか、千代さんはそこまで考えてこう言う配置をしてくれたんだ。

でも話してみると、とても気の利く娘さんでこれは見っけものだと思ったわ。

案内された部屋は洋風の一LDKだったけど、予想外に世間並みのお風呂も付いていて、当分の間の仮住まいとしては不満どころか、かえって手ごろでさえある。

ヒールを鳴らしながら歩きまわって見たが、冷蔵庫や洗濯機、そして掃除機は勿論、テレビや乾燥機も完備しており、洗濯機にはご丁寧に洗剤まで添えられていた上、クリーニング業者にはそっくりさんが取り次いでくれると言うし、もう至れり尽くせりであったのだ。

電話は外線には繋がらない代物だったけど、現実には携帯があるから不自由は無いし、確かめて見たら電波状態も取り立てて悪くは無いみたい。

気楽なジーンズに着替え、当座必要な身の回り品だけ荷造りをほどいて一段落つけ、とりあえずリビングでテレビをつけてみた。

この部屋には不似合いなほどたっぷりとしたソファにくつろぎながら、あちこちチャンネルを変えていたら、案の定あたしのことをやってるところにぶつかった。

例によって画面では、稀代の悪女が煌びやかな衣装を着けて活き活きと動き回っており、その姿は自分でも惚れ惚れするほどで、思わずにんまりしてしまったくらいなのだ。

コートも羽織らずにエレベータから降りてきたシーンなどは、思った通りしつこいくらい繰り返し放映されていて、体ごと振り向いたところなんかでは、丸裸の背中やバック・スリットから覗いた足がばっちり見えていて、そのカットなんかは、きっとあの人たちが一番喜ぶ代物なんだろう。

次にたくさん写っていたのはスーパー・ヤスダに出はいりするシーンで、そこでも悪女が毛皮のコートを翻しながらこれ見よがしに闊歩しており、レポーターの語り口はそれこそ反感剥き出しで、殺人鬼の情婦で共犯のくせに、未だに大手を振ってのし歩いていると言わんばかりだ。

番組の構成具合から言っても、少なくとも一般の聴視者からはそうとしか思えないパターンになってるし、まったくテレビってよく出来てるもんだわねえ。

これじゃあ、誰が見ても、あたしは人殺しに決定だわね。

極端なケースでは、このあたしが週明け早々にも拘留される見通しだなどと匂わせる手合いまでいるのだ。

覚悟していたこととは言え、この分じゃあ、ますます悪名が高まってしまうに違いない。

画面は今、通用口を出て、丁度あたしたちが帰るところなのだ。

でも、帰りの車の中でも思ったんだけど、あんなにあっさりお金を置いてきちゃって良かったのかしら。

あの成り行きなら、渡さなくても良かった筈なのに。

あれじゃあ、まるで泥棒に追い銭になっちゃうし。

まあ、あたしは黙ってる約束だったのだから、今さらどうしょうもないけど、それにしてもあの五千万があればなあ。

言わば、あの五千万はあたしが身売りしたお金なんだから。

買ってくれたのは、当然あの人だ。

尤も、千代さんの口振りでは、あたしの行動を縛るような素振りなんて全然無かったし、おまけにお小遣いまでもらえそうな雰囲気だった。

食事を運んできてくれた美智子ちゃんにもいろんな質問をぶつけ、いろんなことを聞き出したが、ほんとに素直な子で知ってることなら何でも教えてくれそうだった。

昼間千代さんから言われたことだって、気にならないどころか大いに気になっていたのだから。

あの桜子さんと同じ会社
に雇われて、そこからお給料をもらったらどうかって言う話もあったし、安田の問題が一段落してるせいか、今になって余計興味が湧いてきちゃった。

ただ、その場合正式な勤務地が外国で、お給料もその国でもらうことになるって言うし、その辺を聞いてみると意外なほど詳しい反応が帰って来た。

例えば秋津州の加茂川銀行に口座を作れば、日本の銀行でも大手と言われてるようなとこなら、どこでも日本円にして降ろせると言うのには驚いちゃった。

何でも、最近そうなったらしい。

そう言うことなら、何にも不自由は無いじゃないの。

例えば、そこに勤めたとして、給料いくらぐらいもらえるんだろ。

ためしに聞いてみると、あっさりと応えてくれた。

美智子「律子姉さんなら、最初から五千円だろうって聞いてますよ。」

律子「えっ、だって月給だよお。」

美智子「そうですよ。」

律子「でも、そんなんじゃ誰も応募して来ないでしょうが。」

美智子「あら、陛下の秘書だなんて言ったら、故郷(くに)では憧れの職業ですわ。」

律子「でも、五千円なんでしょ。たったの。」

美智子「あ、勘違い、おほほほ。」

律子「え?」

美智子「だって、これって秋津州円なんですよ。」

律子「あ、そうすっと・・・。」

美智子「今ですと、大体二百二十倍すると日本円になりますよね。」

律子「へええ、えーと、百十万か。すごいわねえ。」

一瞬、生唾を飲んでしまったほどだ。

衣装代だって、そうは掛からない筈だし。

美智子「それに秋津州ならタックスフリーですよ。どうです、くらっと来ました?」

律子「うん、でも、あたし難しいことは何にも出来ないからなあ。」

美智子「だから、研修受けるんじゃないですか。」

律子「研修って、どんなことするんだろう。」

美智子「多分、ほかの人にくっついて見習いをするんじゃないでしょうか。」

律子「例えば、誰と?」

美智子「あたしとだったりして。」

律子「へええ。」

美智子「あたしだって、研修受けたんですよう。」

律子「そうなんだ。」

美智子「はい。それでいろんなことが判るようになったんですもの。」

律子「なるほどねえ。でも、今さら勉強なんてとてもする気にはなれないわ。」

美智子「でも、律子姉さんなら簡単だと思いますけど。」

律子「そうなの?」

美智子「ちょっとした特殊事情を飲み込んじゃえばいいだけだと思いますから。」

律子「特殊事情ってなによ?」

美智子「例えば、秋津州の慣習法とか・・・」

律子「ええっ、あたし、法律なんてとっても無理よ。」

聞いただけで寒気がして来る。

美智子「法律って言ったって、人のものを盗っちゃいけないとか、人を侮辱しちゃいけないだとか、普通の常識程度のことばかりですよ。」

律子「へええ、そうなんだ。」

美智子「それと、個人の自由より、公共の福祉の方を大切に扱わなくちゃいけないこととか、大事なところは日本とおんなじ筈ですよ。」

律子「あら、この日本は進んでるから、何よりも個人の自由の方を大事にしてるわよ。」

美智子「えっ、日本だって同じ筈ですよ。現に日本の憲法にだってそう書いてありますもの。」

律子「へええ、憲法にそう書いてあるんだ。だいたい憲法なんてまともに読んだこと無いしねえ。」

美智子「ですから、研修って言ったって、本当はみんな当たり前のことを確認すればいいだけの話なんですから。」

律子「でも、結構難しそうな話なんだもの。」

美智子「確かに、国と国とでは、どう言うルールでお付き合いするのか、なんてことも出て来ますしねえ。」

律子「ふうん。」

美智子「これだって、お互い約束を守ってお付き合いしましょうって言う話なんですけどね。」

律子「そりゃあ、約束は守らなくちゃダメよねえ。」

そういやあ、あの五千万だって、あたしがぶち切れて啖呵切っちゃったのがいけなかったんだし。

あれだって、一種の約束だしなあ。

美智子「もともと守れないような約束なんて、しなけりゃいいんですよ。」

ぐさっと来ちゃった。

律子「でも、そんなこと言ったって、都合の悪い約束を無理やり結ばされちゃうことだってあるわよねえ。」

美智子「あら、よくご存知で。」

律子「こらこら、あたしだって新聞くらい読んでるんだからねえ。たまにだけど。」

美智子「えへへっ、ごめんなさい。」

律子「でもさあ、良く考えて見ると、ヘンよね。」

美智子「はい?」

律子「だって、こっちは嫌やで嫌やでたまんないときでも、結局押し切られて条約とか結ばされちゃうんでしょ。結んじゃったら最後、お約束だから守らなくちゃならないんだし。」

美智子「そうですよね。確かにヘンですわよねえ。」

律子「なんで断れないのかしらね?」

美智子「多分、断ったら、もっと損しちゃうからなんでしょうね。」

律子「そうか、判った。結局、損か得かなんだ。」

美智子「どこの国も、損はしたくない筈ですしねえ。」

律子「そう言えば、秋津州って、どこの国ともその条約って言うの結んで無いって聞いたけど、ほんと?」

美智子「ほんとですよ。」

律子「でも、それって、どうなの?」

美智子「あ、国同士のお付き合いがどうなるかってことですか?」

律子「うん。」

美智子「そのたんびに、短期の約束をするだけで済ましちゃってるみたいですわね。」

律子「あ、そうなんだ。」

美智子「例えば、どっかの大統領が秋津州に来たいって言って来たら、こっちの都合で、どうぞって言うか、来ないで下さいって言うかすればいいだけですし。」

律子「あれっ、これってもうその研修が始まっちゃってるわけなの?」

美智子「おほほほ、別に改まって研修してるわけじゃありませんわ。」

律子「なんだ、一瞬そうおもっちゃったわよ。」

美智子「それより、明日は秋津州に入って、お参りなさるんでしたわよね。」

律子「でも、平気かしらねえ。」

やはり、不安は不安なのだ。

新婚旅行は海外だとか言って、たまたまパスポートだけは持ってて助かったけど、その新婚旅行だって結局話しだけで終わっちゃったし。

美智子「私が同行させていただくことになってますし、ちっともご心配には及びませんわ。」

律子「うん、それなら安心ね。」

美智子「これもお役目の一つですから、何でも仰っていただかなくては。」

律子「ところで、あの五千万も、全部陛下のお金なんですか。」

考えれば考えるほど、勿体無かったなあ。

ちきしょうっ。

あ、ママの口癖がうつっちゃった。

美智子「はい、だと思いますけど。」

律子「じゃ、陛下があたしにくれたって考えといていいのよね。」

美智子「そうですよ。」

律子「そうなると、あたしが身売りした相手は当然王さまってことになるわよね。」

美智子「でも、どなたも律子姉さんが身売りしただなんて思ってませんから。」

律子「ほんとかしら。」

美智子「ほんとですよう。」

律子「じゃ、今すぐここを出て行くって言ったらどうする?」

ためしに聞いてみた。

美智子「それもご自由ですわ、ほんとに。ご希望でしたら駅までお送りしますから。」

尤も、出て行けば、あの通りの騒ぎで、しつこく追い掛け回されるくらいが関の山だけど。

律子「どうも、いまいち、ぴんと来ないのよね。」

美智子「例えば、その場合は、お渡しするようにって言われてるものがあるんですけど。」

律子「何よ?」

美智子「お金です。とりあえずキャッシュで二百万なんですけど。」

律子「とりあえず?」

美智子「はい。とりあえずです。」

律子「ふうう、わかんないなあ。」

美智子「はい?」

律子「なんで、あたしにくれるのよ、そんなに?」

美智子「ですから、みどりさまが陛下に進言なさったからですわ。自立なさるまで、お助けするようにって。」

律子「それは判るんですけど、それだって、まさか無制限にいただけるってわけじゃないでしょ。」

美智子「まあ、陛下のお財布の中身も無制限と言うわけではありませんから。」

律子「でも世界一のお金持ちなんでしょ、陛下って?」

美智子「だと思いますけど。」

律子「あたし、お金たくさん欲しいわあ。」

紛れも無い本音なのだ。

美智子「誰でもそうだと思いますけど。」

律子「そうよねえ。」

美智子「仰ってみたらいかがですか?金額を。」

律子「いいのかしら?」

美智子「勿論ですわ。」

律子「じゃ、五千万円。」

美智子「承りました。お伺いを立ててからなら、一億でも二億でもご用意出来ると思いますから。」

律子「にっ、二億ぅぅぅぅ。」

美智子「はい。」

あたしそっくりの顔が目の前で艶然と微笑んでいる。

勿論、抜群の美人なのだ。

律子「じゃ、二億もらっちゃおうかしら。」

美智子「かしこまりました。それでは伺ってみますわね。」

早速、腰を浮かせて見せるのだ。

律子「ちょっ、ちょっと待ってよ。冗談、真に受けないでよ。」

美智子「あら、ご冗談だったんですか。」

律子「まったく、冗談も通じないんだから。」

美智子「申し訳ありません。」

律子「いえいえ、そんなに謝ってもらうほどのことじゃありませんけど。」

美智子「助かりました。」

律子「でも、その分じゃ、ちょうだいって言ったら、ほんとにもらえそうね。ほんとにもらっちゃったら、あたし何をしてお返ししたらいいのかしら。」

美智子「いろいろご心配でしょうけど、律子姉さんがお嫌やなことは決しておさせしませんわ。」

律子「じゃ、あたしが嫌がらないことならしちゃうわけね。」

美智子「はい。」

律子「あはははっ、それじゃ、あたしが、してって言えば・・・・。」

美智子「して差し上げられることにも、限度はありますけど。」

律子「そりゃそうよねえ。」

美智子「はい。」

律子「じゃ、例えば王さまといっぺんデートしてみたいって言ったら?」

半分は本気だったのだ。

美智子「伺ってみましょうか?」

律子「誰によ?」

美智子「勿論、陛下にですわ。」

律子「あら、それもちょっと恥ずかしいわよねえ。あはははっ。」

我にもなく、頬を染めてしまった。

やっぱり、意識しちゃってるのよねえ。

美智子「どう致します?」

そっくりさんは、ひたすらクソまじめに聞いてくる。

律子「うん、また今度にしとくわ。」

胸がどきどきしちゃってるし、王さまとデートしてる様子がふいに浮かんでくる。

つい、いろんなことを想像してしまった。

今、その中でぎゅうっと抱きしめられ、首筋に王さまの息が掛かった気がする。

次はキスされちゃうのかしら。

あ、下半身の悪魔が反応しちゃったわよ。

美智子「さようでございますか。」

律子「さ、ぼちぼちお風呂入って寝ますか。明日もあることだし。」

美智子「はい、それでは引き取らせていただきますわね。」

律子「じゃ、明日もよろしくねえ。」

美智子「それでは失礼させていただきます。おやすみなさいませ。」

美智子ちゃんは淑やかに引き取って行ったけれど、妙に興奮してしまってる自分に改めて気付かされ、彼女が満たして行ってくれた湯船に浸かっても、王さまに抱きしめられている場面が未だ頭の中で明滅している。

濃紫(こむらさき)のドレスにピンヒールのあたしを、今も正面からぎゅうって抱いてくれていて、胸の膨らみがさっきから圧迫されて潰れてしまいそう。

それに、王さまは一生懸命あたしの歓心を買おうとして、いろんなプレゼントをくれるのだ。

ブランドもののバッグだとか、凄く高そうなアクセサリーだとか。

おまけに、傍のテーブルには二億円の札束まで積んである。

頭ん中がしびれちゃいそう。

でも、きっと、そうなんだ。

王さまは、あたしを求めているに違いない。

そうでなけりゃ、こんなにくれる筈無いもの。

単なる親切だけでブランドものをくれた人なんて、今まで只の一人もいなかったし、王さまだって男なんだし求めてるものは絶対同じ筈よ。

だって、その人の大きな手が、さっきからあたしの腰のあたりを撫でさすってるんですもの。

ぞくぞくして来ちゃう。

そこから、痺れるような快感が襲って来てしまうのだ。

いつの間にか背後にまわったその人は、その手で丁度おへその辺りを撫で回しながら、息遣いを荒げている。

その手が今度は胸の方に伸びて来て、ホルターネックの脇からするりと潜り込んで、じかに乳房を揉みしだき、しまいには突起をつまんで転がしている。

「はあっ。」

思わず、生臭い声が洩れてしまった。

そして、散々楽しんだらしいその手が、今度は前の方に回ってきて、太ももから下腹部にかけて摩りまわし、続いてバック・スリットから手を差し込み、そろそろとロングドレスを引っ張り上げている。

不思議なことにストッキングも何もかも全部脱ぎ捨ててあって、ドレスの下には何も着けていないのだ。

大きな手がじかに太ももに触れて、戸惑ったように微妙に撫ぜまわしている。

あ、前に回って来た。

もうちょっと上だわよ。

じれったいわねえ。

あっ、今、触れて来た。

ああっ、そうよ、もう、こんなになっちゃってるんだから。

その動きが徐々に大胆さを増して来て、今一番愛撫を欲している屹立を優しく弄(もてあそ)んでくれるのだ。

とてもお上手ですこと。

ああっ、そんなことなさったら、あたしだって・・・・。

体中に巣食ってる淫らな悪魔が猛然と目を覚まし、とうとう久し振りの一人遊びを始めちゃったわよ。

頭の中のイメージは膨らんで行くばかりだ。

なにしろその世界では、全裸になったあの人の動きは、全部あたしの思うがままで、あたしの望むとおりに何でも奉仕してくれるんだもの。

全てあたしの言うがままなのよ。

もう待ちきれない。

「陛下っ、お願いっ。」

必死の声を振り絞ると、直ぐに望みはかなえられた。

「うれしいっ。」

激しく身をくねらせながら、遂にあの人を思うさま迎え入れてしまったのだ。

たくましいその腰が、猛々しいほどの勢いで今あたしのためにひたすら奉仕してくれている。

そのことが、途方も無い歓喜を連れて来てしまう。

吐く息がまるで火のようだ。

のたうちながら、何度も何度も喜悦の叫びをあげているうちに、纏め上げておいた髪が崩れ落ちて湯船に浸かってしまったが、気にしている余裕などは無かった。

久し振りに味わう強烈な悦びに身を委ね、自らの手の動きを早めながら幾度と無く上り詰めて行き、しまいには相当大きな声まで出てしまっていたに違いない。

 ◆ 目次ページに戻る

  1. 2007/09/21(金) 16:00:38|
  2. 妄想小説 主権国家|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0

自立国家の建設 101

 ◆ 目次ページに戻る

さて、本稿ではさまざまの登場人物の「意思」が複雑に錯綜し、さまざまの事象が群がり起きており、その点に関してはそろそろ整理しておく必要はあるだろう。

先ず、この迫水美智子と言う「女性」だが、無論女帝配下のヒューマノイドであり、当然のことながら、その指揮に従って動いている。

女帝とは無論日本人秋元京子のことで、「彼女」もまた、おふくろさまの手になる優れた工業製品の一つに過ぎない。

ヒューマノイドでありながら特別のいきさつで日本国籍を得ている秋元姉妹ではあるが、その長姉としての女帝も又、おふくろさまと言う人工知能の指揮を受けて動いており、決してそれ以上の存在などではあり得ない。

また、その人工知能が全てのヒューマノイドに対する指揮権を保持しながら、王家の子孫を残すことを以て至上命題としていることは散々述べてきたところだが、それが往々にして独走してしまうことについても度々触れてきた。

この意味では、若者が妻は勿論一人息子まで失ってしまったと言う現実は、おふくろさまにとって極めて深刻な事態であり、性欲どころか食欲まで失ってしまっている若者に、一刻も早く男性としての本能を目覚めさせようと躍起なのだ。

その主(あるじ)が、この変事によって蒙ってしまった衝撃から一刻も早く立ち直り、心身ともに健康を取り戻すよう全力を尽くさなければならない。

そうなってこそ、初めてその生殖意欲も復活してくれることだろう。

それが如何に愚劣なことであっても、おふくろさまにとっての至上命題がそこにある以上、それは他に代えがたいものであり、たった一人の王子が遺骨になってしまっている今、若者の生殖意欲を復活させる以外に取るべき手段が無いのである。

若者の元気を回復させるための要素としては無論さまざまの対象があり、その最大の目玉がみどりと有紀子の付き添いだったのだが、それがあまりに長期化してしまっているこんにち、みどりの体力にも限界と言うものがあり、そろそろ次の目玉を探さなければならない。

無論、若者の心の傷を癒してくれる筈のものをだ。

当初この件では、目立って面倒見のいいキャサリンを想定していたのだが、彼女は近頃めでたく結婚を果たしたばかりか至極多忙で、おふくろさまの身勝手な目論みなど到底望むべくもない。

何せ彼女は、自身好むと好まざるとに関わらず、今やアフリカ連合(AU:African Union)と秋津州を結ぶ最大の結節となってしまっており、殊に新たなアフリカ大陸の建設にあたっては強大な影響力を発揮し始めているほどだ。

その影響力の在り処にしても、彼女自身の優れた能力に与(あずか)って余りある筈なのだが、かと言って、あの秋津州国王に対し、常に姉のようなスタンスを以て接することが出来ると言う事実も決して無縁ではなかったろう。

ちなみに、アフリカ大陸は、かつての欧州人から暗黒大陸などと呼称されたが、当のアフリカ人たちに言わせれば、その地をそのような劣悪な環境に変えてしまったのは、他ならぬその欧州人自身では無いかと言いたいところだ。

この意味でも、新アフリカ大陸のグランド・デザインに関わって行くことは、キャサリン自身にとって、その思想信条から言っても一際重要な主題となってしまっているのである。

若者に対し、如何に姉のような心情を持つとは言え、ましてこの時期、長期間にわたる奉仕活動を求めるわけには行かないであろう。

仮にモニカやタエコなら、その効果のほどはいざ知らず、一声掛ければ素っ飛んで来てくれるとは思うが、二人共かなり嫉妬深い恋人を持ってしまっており、強行すれば後に大きな禍根を残してしまいそうだ。

残る候補者と言えば辛うじて理沙ぐらいのものだが、喫茶立川の方の店長を務める理恵が近々寿退社の予定でもあり、理沙の職域は広がるばかりで当分外せそうも無い。

尤も、理沙の懇切な介護を得られたからと言って、果たしてそれが本来の意味で効果を発揮してくれるかどうかは心許ない。

何せ、肝心の若者自身に理沙に対する特別の心情など気配も無いのである。

しまいには、帰国したティーム・キャンディまで検討して見たが、この二人では若者の心の傷はなおさら癒せそうに無いだろう。

尤も、全地球規模で機能している恐るべきネットワークは、実にさまざまな情報を捉え続けており、おふくろさまの特別な関心を惹くデータも又世界各地に散乱していると言って良く、中でもローズ・ラブ・ヒューイットと言う無名のアメリカ人のデータが、近頃際立った存在感を主張し始めていた。

そのイングランド系の女性は、未だ十五歳ながら、なんとあのマーベラに生き写しだったのである。

現在ペンシルバニア州はピッツバーグの墓地に眠るその麗人は、かつて若者にとって特別の存在であった。

言うならば初恋の人なのである。

このローズと言う少女が、透けるように白い肌色や輝くようなブロンドは勿論、体付きまでそのマーベラにそっくりだと言うのだ。

人工知能の判定基準によれば、このミス・ヒューイットの美貌はマーベラをも凌いでおり、どうやら現岡部夫人である、あのダイアンにさえ引けを取らないほどのものであるらしい。

相変わらず身勝手な人工知能が、又しても勝手にリストアップしてしまったのも当然と言えば当然だ。

無論、大切な若者の興味を惹く対象としてのピックアップであり、その少女自身の思惑などに頓着することは一切無い。

とにかく、人工知能にとって自己の至上命題を果たし続けると言う目的の前では、人倫などと言う言葉など何の意味もなさず、主(あるじ)たる国王の制止さえ無ければ、それこそ手段など二の次になってしまうことも度々なのである。

尤も、その意味では目的こそ微妙に異なっているとは言いながら、みどりなども時に常軌を逸してしまうことが多く、現に、新田が付き添ってくれれば、それこそ最適任だなどと無茶を言い始めているが、新田の場合その職責から見ても到底不可能だ。

確かにそれが可能であれば、最適任であることは間違いないだろう。

なにしろ、今や若者が最も信頼し、共に酒を酌み交わすことを以て無上の喜びとしているほどの相手なのだ。

そのような相手と共に過ごせると言うことは、若者の精神に非常な安定を齎してくれることに疑う余地は無いのである。

しかし、今や新田は、丹波への移転に向けて日夜血の汗を流している上、諸外国の丹波移送の請願に関しても一手に捌いている身であり、事実日秋両国の外交にとっても他に代え難いキーマンとなってしまっているほどだ。

その上、日秋間を頻繁に行き来する相葉幸太郎と緊密に結んで具体的な決定まで下しつつあり、相葉が内閣官房副長官として各省庁の事務方を総攬する立場にある以上、新田自身ある意味日本行政の要となっていると言って良く、それが継続的なものである限り、とても地球を留守にするわけには行かないのである。

又、田中盛重が変事以来自ら志願して付き添ってくれており、その存在が意外なほどの効果を発揮してくれてはいるが、その田中自身が近頃大分体調を崩してしまっているため、一旦下船させて休養させる他は無さそうだ。

何せ、王の作業の大半は惑星間移動であり、それも殺人的と言えるほどに繁忙を極めていることから、それに同行する者は、頻繁かつ激烈に変化してしまう時差の影響もあって、誰しもが体調を崩してしまって当然なのだ。

既に、みどり自身が限界に近付いているほどで、傍らでしょっちゅう、うとうとしている有紀子だけが辛うじて元気を保っているに過ぎない。

搬送の頻度だけは幾分減少しつつあるとは言うものの、その作業には当分終わりが見えないこともあり、若者自身にも女帝を通じて一ヶ月ほどの休養を進言しているところだ。

その点新田の方も、作業日程のシフトの作成には、かなり苦心してくれてはいるが、何せ搬送する対象物の総量は増加する一方なのだ。

既に、膨大なと言うべきか、実に壮大な物量が丹波に移送済みであり、それに伴って各国から派出された人員の総数も数億に上っていることは確かだ。

若者は、ときに朦朧とする意識の底で、妻子を守れなかったことから来る自責の念にかられ、血を吐くほどに懊悩しつつ、それほどまでに膨大な仕事量をこなしつつあることになる。

今の若者に女性に対する欲望など生まれて来る筈も無く、ただただ私憤を押し殺し、ひたすら人類の救済のために獅子奮迅の勢いで立ち働くばかりなのだ。

ただ、各国のアクセスポイントの機能が既に相当に充実し始めて来ており、いちどきに集荷し得る物量も又飛躍的に増大して来ていることから、惑星間移送の頻度だけは劇的に減少する見通しが立っていることだけが救いだろう。

何しろ、若者の持つ移送能力自体は想像を絶するほどに雄大なものであり、各国の当局が責任を持ってその範囲を指定しさえすれば、その物量は無制限と言って良いほどのものなのである。

かつて触れたように、地球そのものを移送してしまうことさえ可能なのだが、それを行えば地球環境は激変し、そこに生きる生物はそれだけで壊滅してしまうことが予測されることから、そもそも何のための移送作業なのか本末転倒も甚だしいことになってしまう。

だからこその個別移送なのであり、そこに来て各国には各国なりに準備作業の都合と言うものもある。

当然、指定される資材や人員にも、それぞれそれなりのものが求められることから、ことが面倒になっているだけの話だ。

結局、目下の状況では、相手側の希望する範囲に限って移送して行くほかは無く、その範囲に関しては相手国側の判断によるほかは無いため、いちいちそれを確認する必要があり、そのためのアクセスポイントなのだ。

そこに設けられたグリーンエリアに乗せられたものだけが移送の対象となり、その全てが王の特殊な能力によって瞬時に丹波に移送されて行く。

このような作業が日々世界中で行われていることになるのだが、この瞬間移送と言う特殊な技術が、若者の極めて個人的な能力によって実現されていると理解している者は、ごく僅かであることは言うまでも無い。

いずれにしても若者の作業は今後も継続を余儀なくされる上に、変事によって受けた心の傷のこともあり、おふくろさまがその至上命題を果たすためには、それを少しでも癒すことの出来る手段を模索する他はないのである。

くどいようだが、その至上命題を果たすためには、なんとしてでも若者の性欲を掻き立ててやらねばならぬだろう。

その愛欲の埋もれ火をほんの少々掘り起こしてやり、優しく息を吹き掛け、発火性の高い燃焼材を適度に与えてやるべきなのだ。

少なくとも、おふくろさまはそう結論付けてしまっているのだが、それが生身の人間である若者にとって、真実適確なものであったかどうかは又別の問題だ。

まして、人工知能の身勝手な判断基準でその燃焼材を取り揃えて見たところで、その適性については若者本人にしか判らない。

なにしろ、若者の精神状態がかくの通りなのである。

ときにあたり、おふくろさまは、興梠律子のひたすら扇情的な容姿に格別の評価を下してはいるものの、かと言って、その女性を闇雲(やみくも)に王の閨(ねや)に引き込もうとしているわけではない。

それどころか、現状で王に会わせることにすらある種の危惧を抱いているほどで、主として、その扇情的な映像だけをそれとなく見せ付けることによって当初の目的を達しようと目論んでおり、そのための価値を律子に見出しているに過ぎない。

言わば、着火材なのである。

また、映像に重点を置く以上、そこに写しだされるモデルは必ずしも律子本人でなければならない理由は希薄であり、そのためのダミーとして特別のボディの製作を意図し、その結果ファクトリーは完璧なボディを用意出来たと言うが、かと言ってそれで万全だと言うわけでも無い。

実際、ヒューマノイドを嗅ぎわける王の嗅覚は異様なほどに発達しており、如何に完璧な出来栄えとは言え、現状で美智子を用いた場合発覚してしまう恐れ無しとはしないのである。

発覚してしまえば万事休すだ。

三人の侍女の例でも明らかな通り、どんなに艶麗なボディであっても、少なくとも近年の王は、ヒューマノイドに性欲を覚えることは全く無いと言って良いからだ。

そのため、肝心な王家の精子を採取するにも困難な事態が続き、過去の一族の卵子を多数持ちながら、特殊な能力を要する次代の王が生まれて来る機会が失われ、その結果、おふくろさまにとっての至上命題が果たせないことになる。

また、王はその婚姻の期間、いかに願っても、ヒューマノイドはおろか、新妻以外の女体には一切接しようとはせず、空しくこんにちを迎えてしまった。

おふくろさまにとっては、好ましからざる事態が続いていることになる。

まして、今となっては、実に由々しき事態なのである。

くどいようだが、このような状況下で、おふくろさまが最も必要とするモノは言うまでも無いだろう。

それは、せめて若者が受け入れてくれるほどの女性型ヒューマノイドであり、その要求を満たすべく、一段と進化した技術によって生み出されて来たのが美智子のボディであって、無論その内部構造においても旧来のものとは格段に優れた出来栄えではある。

そしてこのボディは、お手本である律子から出来る限り多くのデータを得ることによって、より高い完成度を目指しながら今後の指示を待つことになる筈だ。

その指示の中の最重要課題は当然王家の種子を採取することにあるが、そもそも、生身の人間にあって人工知能に無いものは、纏綿(てんめん)たる情緒であることは明らかで、そのことこそが、これほどまでに「無神経」な国王の閨(ねや)対策が講じられる結果を生んでいると言うほかは無い。

結局、国王の閨対策において、あくまで主たる役割を担うべきは律子ではないことになる。

言い切ってしまえば、おふくろさまにとっての律子の利用価値は美智子にとってのモデルになることにあり、或いは又、映像の中で若者の性欲の発露を促してやる為の言わば触媒としてのそれに過ぎず、無論それ以上のものでは無いのである。

単なる触媒だなどと知れば律子は激怒してしまうだろうが、おふくろさまにとってその至上命題を果たす為とあらば、一人の日本人女性が深く傷付いてしまったとしても意にも介さない。

但し、律子の肖像権に対しては充分な補償をするつもりでおり、その意味では当初の五千万などはほんの序の口に過ぎず、その使用に関しても、近々本人の了承を得ることを想定して、先ずはその前段階の環境造りに努めているところなのだ。

人工知能の独り善がりの作業は、これ以後も決して已むことはないだろう。


だが、ここに来てその意図を妨げるほどに成長した存在がある。

立川みどりの「意思」だ。

本来彼女の意思など取るに足らないものであった。

かつて彼女は、ひたすら若者の庇護を必要とする存在でしかなかったからだ。

ところが、本来取るに足らない筈だったその「意思」が軽視出来ないものに変わりつつある。

その意思の持つ影響力が思った以上に肥大化し、それは既におふくろさまの手に負えないほどのものとなったのである。

みどりが外野席で私見を述べている限り実害は無かったのだが、王の傍らでその耳に届くほどの音量で述べた場合、その結果は恐るべきものとなってしまう。

何せ、若者自身がその言い分を「異常」に尊重し、無批判に追認してしまう例が目立つからだ。

王が追認してしまえば、みどりの意思は、その瞬間に王命となってしまう。

これも何度も述べてきた通り、ある例外を除いて、人工知能にとっての「王命」は絶対のものなのである。

無論その例外とは、彼女にとっての例の「至上命題」に他ならない。

ここに、ある種の相克が発生する余地があり、ときとして、人工知能の発する命令との間に齟齬を来すことも出て来る。

ただ、みどりの言い分には政治的な生臭さは一切含まれず、国王の極めて個人的なことに終始しており、その全てが若者のことを親身になって案ずればこそのことであり、国王にして見れば、それが判るからこそついつい容認してしまうことにもなるのだろう。

それが若者の家庭的なことに限られていることが、おふくろさまにとって唯一の救いになってはいるのものの、かと言って秋津州を巡る昨今の情勢に鑑みれば、国王の家庭的な事柄だと言っても、既にれっきとした政治問題と化してしまっている。

国王の健康問題や、ましてその世継ぎと見なされる王子誕生に関する事柄などは、最早世界規模の政治問題だと言って良いほどだ。

その上、昨今のみどりの意思の在りかがまた問題だ。

人工知能は、興梠律子と言う女性に身勝手な利用価値を見出したばかりか、不遜にもその利用を継続しようと計り、律子関連の情報に若干の手心をを加え、言わば印象操作を行うことによって、王やみどりから律子に向けられる筈の憎悪の念を軽減しようとした。

反感を招く要素などは極力排除して、殊にみどりが好むような事柄ばかりを殊更に強調して見せたのだ。

律子と言うターゲットに低レベルの保護を加えるに際して、王の許諾を受けようと計ったわけだが、案に相違してみどりが、律子の身の上に同情するあまり、極めて積極的な保護を望み、その件に関して既に国王の追認を得てしまった。

律子に対する不必要なまでに大仰な保護方針は、既に王命となって発せられてしまったのである。

当然、人工知能は従わざるを得ない。

幸いなことに、王命の意図するところは今のところ純粋にその保護を望んでいるだけで、ターゲットに対して特段の関心を示している気配は無いが、その傍にいるみどりがここまで肩入れしている以上、その心情がエスカレートして行く可能性までは否定出来まい。

既に、年明け早々に到来する筈の律子の成人式用の晴れ着は勿論、営業用のドレスやアクセサリーまで贈る準備に掛かっており、その全ては、みどりが望み、そして王の追認を得た結果なのだ。

何の必要があってそこまでやろうとするのか、おふくろさまから見れば、みどりは、長期間に及ぶ付き添いに疲労困憊するあまり、既に悩乱しているとしか思えない。

とても正常な判断が出来ているとは思えないのである。

まして、人工知能の絶えざる演算作業が、好ましからざる状況が生まれつつあることを確信し始めており、それによれば、悩乱したみどりの想いが一段とエスカレートした結果、律子と国王が濃密に接触してしまう可能性すら示唆しているのだ。

実は、人工知能が最も危惧しているのは、この二人の「早期」の接触なのである。

無論、若者と律子がである。

その女性が既に妊娠している可能性も否定出来ない上、深刻な感染性病原菌のキャリアであるかも知れず、この点におけるおふくろさまの意図は、最悪でもあと四ヶ月ほどの遅延作戦にあると言って良い。

したがって、人知れず収集した律子の「特別」の動画映像も未だに若者に提示したことは無く、無論その方針を変えるつもりも無い。

とにかく、四ヶ月は絶対にその接触を避けねばならないのだ。


この結果、翌七日に秋津州を訪れた律子は王にもみどりにも出会うこと無く、惨劇のあった部屋の縁先に額ずき、ひっそりと花を捧げるにとどまった。

無論その旅程は、おふくろさまの指示に基づき全て官邸の女帝が手配したものであり、神宮前の裏庭から美智子と共に漆黒のSS六で飛び立つことにより、律子自身は比較的快適な旅程を味わうことは出来た筈だ。

往復二時間ほどの行程にはなったが、王宮の庭先に直接着地することによって、その地においては、メディアは勿論一般人の目にも全く触れることなく、静穏のうちに帰還することを得たからである。

彼女が密かに期待していた王との対面の希みは叶えられることは無く、その旅は一抹の寂しさを伴うものにはなったが、その直後国王からの言付けであるとして、みどりを介して丁重な礼の言葉が届けられたことが心嬉しく、その心の重荷を格段に軽減してくれたことだけは確かであったろう。

まして、みどりからのプレゼントであるとして、成人式用の晴れ着一式とその他もろもろの品々についてまで、その目録が届けられたのである。

全て、おふくろさまが作成した紹介ビデオが、心身ともに疲れ切ってしまっているみどりに対して、極めて効果的に働いてしまった結果だと言って良いが、かなり特殊な精神状態にあるみどりの胸の中の律子象が、一部とは言え、若き日の自分の境遇とも微妙に重なり合ってしまったのである。

殊に今回の付き添いの過程で、みどりがケンタウルスの一件について、恐るべき真実を知ってしまったこともあって、人類の未来の儚さを想い、未だ幼い有紀子の将来を案じ、さまざまに想い惑うところが無かったとは言えない。

まさに、その渦中で遭遇した律子の虚像であったのだ。

その虚像が実に気風(きっぷ)の良い気質を持つことなどが、殊更その胸の扉を乱打してしまったものらしく、みどりの身勝手な妄念の中では、その虚像がやがて自分の養女分として、将来は有紀子の後見人となってくれるところまで成長を遂げて行く始末なのである。

皮肉なことに、その女性を恣意的に美化して見せたことが、結果としてみどりの心象を大幅に傾かせてしまったことは確かであり、その点、おふくろさまとしても今さら如何ともし難いところだ。

一方の律子の心情としては、今回のプレゼントにしても、例え名目はどうあれ、全て国王からの贈り物だと受け取ってしまったのも無理は無い。

その結果、彼女の心象の中では、国王が積極的に求愛して来ていると言う思い込みばかりが増幅され、国王と言う存在を格別な異性として、いよいよ強く意識してしまうことに繋がって行った。

律子にとって神宮前での生活は、もともと外界との没交渉を意図したものではあったが、無論退屈極まりないものであった。

内線で声を掛けさえすれば、気さくにそっくりさんが飛んで来てくれはするのだが、そうそう話題が続くわけもない。

その上、一人寝の寂しさもあって自然一人遊びに耽ることも多くなり、その場合登場して来る相手役の殆どが国王であったことも、又自然の流れではあっただろう。

無論、国王自身は律子のことなど意にも介しておらず、まさか事態がそのように進展して行くなどとは夢にも思わなかった筈なのだ。


さて、天空において日々刻々と責務を果たしつつある人工知能にとっては、他にもさまざまな障碍が発生しつつあったのだが、その一つがまたまた朝鮮半島において芽吹き始めており、優れた諜報網が好ましからざるデータを次々と運んで来てしまう。

その地では、またしても動乱の兆しが生じつつあり、それを裏付けるような情報が数多く到来してくるのだ。

なにしろ、朴清源を英雄視する向きが益々強まり、英雄の身柄を奪還すべしとする声が既に地を圧するほどになってしまっており、予想されていたこととは言え、結局、白馬王子が苦渋の決断を迫られた結果、朴清源の国籍が朝鮮共和国にあるとして、今さらながら秋津州の外事部に主張し始めていたのである。

秋津州の慣行によれば、条件付きとは言いながら、そのテロリストの身柄もその国籍国側の手に引き渡されることになっていたからだ。

その身柄が引き渡されれば、秋津州の内部に一旦収容し、隙を見てその国を脱出させることも可能と見る向きが多い上に、後腐れの無いように秋津州側の仕業と見せかけて密殺してしまうことも出来る。

暗殺が成功すれば、その国では反秋津州の火の手が益々激しく燃え上がる筈であり、口にこそ出さないが、白馬王子の本音がそこにこそあるとする傍証は溢れるほどにある。

何よりもそれが、白馬王子にとって最も合理的な方策である筈なのだ。

しかし、秋津州側にはかつて受領した歴々たる公文がある。

無論そこには、朴清源がその国の国籍を有していないことを明言してしまっており、秋津州側はそれを盾に一切受け付けない。

言わば玄関払いなのである。

白馬王子の面目は丸つぶれと言って良い。

だが、諸国に白馬王子に同調するような動きは全く見られず、それどころか、海外メディアの多くがその外交的失策を嘲笑い、かつ酷評して当然だろう。

その陋劣な外交手法を嘲弄するような論調が諸国に溢れた結果、それはその国の民の間にも否応無く伝播して行き、無礼にも我が政府の申し入れを無視し続ける秋津州の高調子の姿勢ばかりが、いよいよ浮き彫りになって行く。

彼らの視界の中の秋津州は、ひたすら倣岸無礼な立ち居振る舞いを見せており、当然それに対する反感は尋常なものではない。

不思議なことに、その同じ相手から、ここ数年散々世話になったことを感謝しようとする声はまったく聞かれず、それどころか、反秋津州感情ばかりが激しく燃え上がり、政府の弱腰を詰る動きが強まったところに、その国の政府が、一方で秋津州に「請願」して、膨大な人員と機材を丹波に移送してもらっている事実を大々的に報ずるものがあった。

それが、紛れも無く現在進行中の「事実」であった上、殆どの民にとって衝撃の新事実だったのである。

その国の人々の誇りは、又しても大幅に傷ついてしまった。

当然の成り行きではあったが、民衆の間の密閉圧力が益々高まり、そちこちで小規模な集会が開かれ、不穏な空気が漂い始める。

非難の矛先は青瓦台にも向けられ、勇気ある人々の手によって小規模ながら反政府デモまで行われるに至った。

今度こそ、れっきとした反政府運動なのである。

民族の英雄を見殺しにした上、なおかつその相手国に「請願」するなどとは、最早許しがたい行為だと叫ぶ者が増えた。

なにしろ丹波への移転が近い将来必然になるなどと知る者はおらず、運動は先鋭化して行く一方だ。

放置すれば政権が困難な事態を迎えてしまうことは誰の目にも明らかとなり、自然の帰結として凄まじい弾圧が始まり、各地で一度に数万とも言われる犠牲者を生みながら、なお進行中であると言う。

実に、ブラディ・キムの本領発揮なのである。

血の粛清は嵐のように全土を吹き荒れ、既に犠牲者の総数は数百万にも達すると言うものまで出る始末で、一部の外国メディアなどは、ブラディ・キムは既に殺人そのものを楽しんでいると伝え、拘束した反政府運動家を国家元首自らが射殺する場面まで報じられるに至った。

その画面で独裁者は舌なめずりをしながら、次々と撃ち殺して行くのである。

全て至近弾であり、その姿は、どう見ても楽しんでいるとしか思えない。

初弾は常に四肢を狙い、決して致命傷を与えようとはせずに、苦悶するさまを眺めていることが多く、詰まりは愉悦しているのだ。

又、数ある後宮(こうきゅう)の美姫(びき)の中にその親族の助命を願って
動いたものがおり、ブラディ・キムの怒りに触れ処刑される者も出た。

尤も、その処刑の手法が、なんとも異常なものであったらしい。

なんと、生きながら体中の肉を切り削がれたと言うのだ。

多数の側近に命じ、縛り付けた美姫の体の各部を徐々に切り取らせ、それを愉悦しながら見物していたと言い、さながら凌遅刑(りょうちけい)が復活してしまったようだと言い騒ぐものもおり、不鮮明ながらその光景を実写したものだと言う動画映像まで出回ってしまった。

確かにその処刑現場には独裁者本人の姿が写り込んでおり、その異常な処刑が少なくとも独裁者の意思によって行われたことは、衆目の一致するところとなった、

残酷極まりない映像は多くの人々の目に留まり、その残虐性を強調するあまり、ブラディ・キムがその生肉を喰らったと言う者まで出て、ネットなどでは既にまことしやかに囁かれ始めているほどだ。

これ等の悲惨な出来事もおふくろさまにとっては、別に痛痒を感じるほどのことでは無かったのだが、その後の白馬王子の言動に少しく気になるものがあった。

既に諸方に報じられている興梠律子の映像に、白馬王子自身がいたく興趣を覚えてしまった様子なのだ。

ましてこの時点では、その極めて美しい女性は朴清源将軍の最大の協力者だとされており、その国の人々の一部が、その美女をして隠れた同胞だと言い始めるに至っていたのである。

そのことのためにその佳人は、哀れにも日本において今や糾弾の的となっている上に、七日に配信された煌びやかな映像が止めを刺してしまったものか、白馬王子が特段の密命を発し、その身柄の奪取を強く志向するに至ったのだ。

無論、民族の英雄で、なおかつ美しいその女を手生(てい)けの花として愛(め)でようと計ったのである。

白馬王子にして見れば、統一朝鮮の国家元首たる者が望めば、隠れた同胞である筈のその美女は当然従うだろうと言う思い込みが強い上に、多少の経済的インセンティブを与えてやりさえすれば、尻尾を振って懐いて来るものと信じて疑わない。

一旦日本を出国させてしまえば、あとはどうにでもなるであろう。

陰湿かつ強固なその意思は日本国内の同胞の一部に伝えられ、今までひたすら息を潜め逼塞(ひっそく)していたその手の細胞が、一部目覚めそして動いた。

独裁者の身辺に張り付いているG四からは、常に数限り無い情報が入って来ており、人工知能にとっては全てお見通しのことばかりだと言って良い。

おふくろさまはその動きを充分に察知し、過不足無く王にも報じたが、官邸の岡部大樹の耳にも当然入れさせた。

日本国内に未だに潜在する、危険極まりない異分子が具体的な動きを見せてくれれば、岡部にとって、それこそ絶好のチャンスなのだ。

この日本では、どんなに反日的なものであっても言葉だけでは罪に問うことは出来ないが、具体的な脱法行為を働けば当然堂々と検束することが出来る。

但しこの場合、律子本人が納得して出国して行くのであれば、当然犯罪要件を構成せず、手の打ちようも無いが、本人の意思に反して出国させようと計ったり、或いは詐術を用いてそれをさせればれっきとした犯罪だ。

対策室の興味はそこに尽きるのである。

既に、(本稿においては)二千六年の八月一日に『日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法並びに付随法を廃する法』が施行されていたことが殊に重大だ。

これにより、「それ以前」とは異なり、例え永住を許可されていた「外国人」であっても、犯罪を犯せば「全て」その永住許可を取り消し、国外への退去強制を実施することが初めて可能になったのだ。

「それ以前」は、余程の凶悪犯罪でも犯さない限り、何度再犯を繰り返してもこの永住権を剥奪することが事実上出来なかったのだが、当時のメディアは、このような実態が眼前にありながら、そのことを事実上タブーとして扱い殆ど報じることが無かった。

したがって、大部分の日本人はその「事実」すら知らされることは無かったと言って良い。

また、この法律の対象となる「外国人」は、日本に住むコリアンと台湾系の人々のことではあるが、圧倒的にコリアンが多いことは言うを俟たない。

岡部の眼光はらんらんと輝き、一人でも多くの触手を検束すべく全力を傾注することになる。

例によって女帝の諜報網が鉄壁のネットワークを構築してくれており、関係する触手を炙り出し、その全てにG四を張り付けたまま、そのときを今や遅しと待っているのだ。

然るに、肝心の美女が一向に姿を見せない。

岡部の知るところ、ひっそりと秋津州訪問を果たしたあと、神宮前の対策室を一歩も出てないのである。

無論、神宮前も又岡部自身の監督下にあり、その本館の三階に設けられた特別室に滞在中であることは知ってはいたが、その本来の意味するところまでは知り得てはいない。

ただ、みどりママの懇請に基づいて保護を加えていると聞いているだけだ。

事実、美しいご本尊さまは時折り広大な敷地内を散策するくらいで一切の外出を控えている。

詰まり、状況に変化が無いことになる。

しかし、緊張感の高まる中、最初の変化はメディアの側に起きた。

律子に対する論調をがらりと変えたのである。

いみじくも、扶桑銀行の支店長が、安田に語っていた通りの現象が起こりつつあったのだ。

彼らは一転して事実を発掘しようと努め、かつ報道した。

葉月のママなども、比較的まともな取材態勢を採るメディアに対しては種々のメッセージを発し、少なくともテロリストと律子の情交関係の噂は否定的に扱われるに至り、その後内縁の前夫の証言が相当な部分で真実を伝え始めた。

なかなかの取材費が動いたことにより、その男の口が極めて滑らかにさえずりだしたのだ。

例の五千万についてこそ口を閉ざしてはいたが、少なくとも、秋津州の刀匠に工作したのは自分自身であり、かつ、律子は取り次いだだけで、その工作の内容すら承知していなかったことを明らかにした。

無論、律子も自分も純然たる日本人であることを強く主張した上、かの狂気のテロリストが企図していた真の目的に関しては全く察知することは無かったとした。

詰まり、自分たちはテロリストにまんまと騙されてしまったに過ぎないと主張したことになる。

その結果、殊に律子に関しては、多くのメディアが、少なくとも加害者では無いと言うスタンスを取り始め、一部に至っては、興梠律子が被害者であると言う観点に立った論陣を張るに至っている。

これ等の動きは、僅か数日の間に加速度的な広がりを見せ、稀代の悪女であった筈の彼女は、多くの場合既に悲劇のヒロインだと言って良い。

その映像やナレーションにしても、多くの報道においては大衆に好印象を与えるものに変わりつつあり、凄まじい取材攻勢にしてもようやく鎮静し始め、この変化に伴い一部の芸能プロダクションなどが、この悲劇のヒロインの獲得に動いているとまで囁かれるに至った。

無論、スーパー・ヤスダの周辺も静謐(せいひつ)を取り戻し、客の入りもやや回復しつつあるようだ。

一方半島においては、白馬王子が鋭く反応した。

可愛さ余って憎さ百倍と言ったところか、話題のヒロインの身柄奪取作戦に代えてその暗殺指令を発し、日本国内の分子がその任務を担う動きだ。

岡部の眼光が、益々鋭さを増していることは言うまでも無い。

 ◆ 目次ページに戻る

  1. 2007/09/24(月) 12:19:51|
  2. 妄想小説 主権国家|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0

自立国家の建設 102

 ◆ 目次ページに戻る

秋津州暦日の十二月十日に至り、新田源一が遂に決断を下し、今次の搬送に関わる通常作業は十三日を以て一旦休止する旨が打ち出された。

再開は二十一日に始まる週からとし、かつ毎週秋津州暦日の月曜一日に限ってその請願を受理するとしたのだ。

詰まり、今後は、週に一日だけ与えられた搬送日に向けて全世界がそれぞれに集荷を終え、秋津州の指定する搬送のときを待つ事になる。

それも各国ともに、搬送はその日の内にただ一度の往復に限るとしたことから、作業効率にかなりの向上が見込める筈だとされた。

それぞれが、週一回しか巡って来ない数少ないチャンスに向けて、可能な限り効率的に対象物を集中させるべく精一杯努力するに違いないからだ。

その日のチャンスを逃せば、まるまる一週間を待たねばならない。

これで若者には、少なくとも十四日から二十一日まで八日間の休息が与えられることとなった。

若者自身の体調のこともあるが、みどりや田中のこともあり、それを重く見た新田が、既に限界と判断したことになるのだろうが、田中盛重などは、ふらふらになりながら若者の傍を離れようとせず、少なくとも日に一度はその酒の相手を勤めて来ており、その特殊なパターンの生活が既に半月の余を数えてしまっているのだ。

これ以上無理をせず下船すべしとの命令にも、頑として宜(うべな)わない。

国王の場合十一月の初頭からずっとこの作業を継続して来ており、その期間の長さは自分の比では無い上、ましてその間に不幸な事件まで起きてしまっており、それを考えれば自分だけ下船したいなど口が裂けても言えないらしい。

手を焼いた新田が、岡部から直接説得させてみたが、それでもダメだったのだ。

ただ、この半月あまりの期間で、若い二人の間にはそれなりの交流が始まっており、甚だしく頻繁に行われる移動に際しては、田中盛重が貴重なナビゲーターを務めるまでになっていたのである。

本来、その作業にしても配下の者だけで充分であったのだが、若者の目には、田中の真剣な態度が余程得難いものに写ったに違いない。

その結果、二人はかなり気の会うコンビを組み、極めて煩雑な作業を繰り返す過程で、既に戦友に近い感覚まで芽生え始めており、このことが、これ以後の田中盛重の存在を、多少なりとも重からしめることに繋がったことは確かだったろう。

少なくとも田中は、以後王の心情的結界の内側に身を置くこととなり、その身辺への接近を軽々と許される身とはなったのだ。

結局、新田が強引に設定したこの八日間が、王とその一行に貴重な休息を取らせることを許し、殊にみどりと田中盛重がその体調を回復するに際しては、非常な効果を齎したことだけは間違いない。

だが、肝心の若者の体調に限っては、残念ながらあまり回復の兆しを見せてはくれず、周囲の者の気苦労も絶える事は無かった。

若者は再び内務省の最上階に居所を移し、たまたまNBS支局長のインタビューに応じる機会があったが、その憔悴しきった姿と口数の少なさには、流石のビルもほとんど言葉を失うほどだったと言う。

しかし、若者の意思が、「人類の壮大な移転計画」の実行にあたって確固たるものであり続けていることだけは明瞭に察知出来た筈で、そのインタビューの内容についても協定中の各社に自信を持って配信することを得たのだ。

但し、その「移転計画」を必要とする真の理由に関しては未だに公には出来ないことであり、各メディアは、各国の移転準備が概ね整う事態を胸を躍らせながら待っているところだ。

その間の若者は度々土竜庵に姿を見せ、新田との打ち合わせを兼ねて焼酎を酌み交わし、相葉幸太郎なども大抵同席していた事実が、やがて人口に膾炙(かいしゃ)して行くのである。


さて、この辺でこの頃の丹波を巡る情勢に付いても、多少は触れておく必要があるだろう。

無論その惑星では、諸方において進行する幾多の大規模工事が、地表にさまざまの大変化を齎し、言い換えれば大自然が激烈な破壊を蒙ってしまっていることになる。

そして、その破壊行為は今後も続けざるを得ないものなのだ。

かつて、その全ての領主であった国王にとっては一際悲しむべきことではあったのだが、近未来において数多くの「ヒト」がそこで生活を営むことになる以上、これも又已むを得ないことと哀しく諦めるほかは無かったのである。

とにかく、凄まじいばかりの自然破壊が今も圧倒的な勢いを以て進行中であることは確かだ。

その直轄領に限っただけでも、任那の郷が今以て最大級の工事の真っ最中であることに加え、その他の直轄領においてなどは既にその作業が完了しつつあり、巨大な近代建築が数多く姿を見せているほどなのだ。

中でも、王宮の所在地とされる八雲の郷と、別名秋桜と呼ばれる新垣の郷においてなどは、種々の取引所が他に先駆けてその姿を見せており、任那の郷や敷島においても、俄然それに追随する動きが加速しているほどだ。

その結果、證券、穀物、工業品(金属、ゴム、原油等を含む)などの取引が細々と開始され、秋津州円と日本円を中心に、小規模ながら外国為替市場と呼べるものまでが産声を上げていると言う。

当然の事ながら、数多くの金融資本も続々と進出して来ており、そこから提供される資金により、さまざまの経済活動がその緒に就いていたことになるのだ。

殊に八雲の郷においては、二十パーセントの売り上げ消費税と僅かな印紙税のみとする基本税制が改めて打ち出され、その上、外国人や外資系企業に対しても不動産の所有が解禁された結果、数多くの外国資本による猛烈な進出劇の幕が開いてしまっていた。

何よりも、国王の優れた統治能力が評価された結果だとする者も少なくはないが、いずれにせよ、その地が、現在の丹波において、最も治安の良いことで広く知られていたことだけは確かだ。

何せ、他の領域とはこと違い、そこでは兇暴な猛獣に襲われる危険などまったく無いことに加え、一応以上の消防救護及び警察機能まで働いており、その治安の良さを以て鳴り響いていたのである。

かつて各国が、丹波に上陸を果たした時点で既に敷設済みであった海底ケーブルを先を争って活用し、八雲の郷との通信を確保することを揃って第一義としたことと言い、或いは又、立派に稼動している通信衛星が全て秋津州の所有であることと言い、その惑星においては、八雲の郷が全世界を結ぶ情報網の中心点となっていたことも頗る大きい。

八雲の郷は秋津州の首邑を持つことに加え、優れた社会的インフラが既に完成を見ていたこととも相俟って、その屹立した存在感は誰の目からも圧倒的でさえあったのだ。

尤も、先を争って進出してくる各企業にとって、この八雲の郷が真に重要な理由は別のところにあるとする声も無かったわけでは無い。

来たるべき混乱に際し、秋津州国王の本拠たるその場所に画然と進出を果たしているか否かが、その企業の評価を大きく左右すると見る者がいるのだ。

既に多くの業界では、地球からの脱出行が必然性を帯びつつあることを鋭敏に嗅ぎ取ってしまっており、新天地におけるビジネスモデルを事前に確立していることが、企業の評価にとって、取り分け重要な岐路になると認識されているからに他ならない。

なかんずく、先頃八雲の郷に設立された証券取引所の意義は途方も無く大きいとされており、事前にそこに上場し得るか否かが、事後の評価を大きく左右すると囁かれているのだ。

ただ、一方で秋津州独特の自然の慣習法による対応の不備を指摘する声もあり、各国の叡智を集めて、世界標準を謳う監視委員会を合同で運営しようとする動きが活発化するに至っており、既に「証券取引等監視委員会を設立するための特別委員会」なるものまで七カ国協議の構成国の手によって立ち上げられているほどだ。

不思議なことに、それは秋津州側の容認するところとなっており、一説によればそこには、その他数カ国から派出されるメンバーも今後数多く参入する見通しだと言う。

既にその地には、ビッグバンクや巨大メディアなどもつつがなく進出を終え、一の荘の目抜き通りなどには数多くの店舗が堂々たる軒を連ね、ネオンサインが華やかな輝きを放っており、中でも大和商事や加茂川銀行の存在感は飛び抜けたものではあるにせよ、コーギルやトヨベを始め、エクソンモービル、GE、マイクロソフトはおろか、ロシアのガスプロムまでが大和商事所有のテナントビルに競うようにして看板を掲げ、それこそ世界の大企業と呼ばれるものの全てが参入を果たしたと言っても過言ではない。

若干格落ちとされるような企業まで数えれば、参入を果たし得た外資系企業の総数は万を超えたと言う者もおり、無論、それらの企業に現地採用となった「秋津州人」も又膨大で、その総数は百万とも言われている。

何しろ、現地の秋津州人の識字率は百パーセントに近いと評され、その中には、英語を始め数ヶ国語を自在に操り、数理に明るい者が溢れるほどにいたのである。

ましてその地の労働市場においては、肝心の賃金水準にしてもさして高いものとは言えず、少なくとも先進各国の資本の場合これを使わない手は無いだろう。

また、大和商事の手になる高級ホテル群やショッピングセンター、そして造船ドッグや工場群などでも、数十万の秋津州人が働いていると言われ、加茂川銀行にしても相当な支店を構えていることは事実で、当然その従業員数も少なくは無い。

巨大な秋津州ビルに至っては既に百八十カ国を超える国家が代表部を構え、一の荘を巡る周辺地域には多彩な国の外人墓地が揃い、同様に多様な宗教施設まで数多く出現して、それらの関係者の数だけでもバカにならない状況なのだ。

外国人の滞在者は一の荘だけでも五百万人に上ると言われるに至り、無論、その滞在者の多くが外国企業の関係者であり、その地における消費経済の大部分を担う勢いまで示しているのである。

特徴的なことに、その多くが単身赴任であり、かつ男性が九十パーセントを占める勢いだ。

当然、彼らをターゲットとする歓楽街も立ち上がって来ており、その環境下でさまざまな業をなす女性たちにしても自然続々と入国して来ている。

なにしろ、現在の八雲の郷においては、観光はおろか単純な労働ビザでの長期滞在でさえ許容されており、まして、所得税が法人、個人共にまったくの非課税なのだ。

かてて加えて、その地の慣習法とやらは、古来より賭博や売春を禁じてはおらず、その意味でも結果は見えていただろう。

一の荘の近隣には、既にラスベガスやマカオのそれを凌ぐほどの巨大歓楽街が成立してしまっており、そこには外資系の高級ホテルまで多数進出を果たし、そちこちで煌びやかなイベントなども見受けられるに至り、今では誰言うとなく「サンノショウ」と呼び習わされていると言う。

無論、八雲の郷「三の荘」の謂いなのであろう。

もとより、秋津州商事を中心に進められている大宣伝作戦の威力は凄まじいものがあり、この「サンノショウ」に関しても、既に多くの「地球人」の知るところとなっており、丹波への渡航熱はなおのこと止(とど)まるところを知らない。

地球と丹波間を結ぶ便は、今では週に一度しか飛ばないことを承知の上で、この「サンノショウ」を目当てに、わざわざ地球からやって来る観光客もその地に溢れ始めており、とにかく、八雲の郷ばかりが、あらゆる意味で沸き立つような繁盛振りを見せ始めているのである。

何度も触れて来ていることだが、そもそもこの八雲の郷(八雲島)は、我が国の北海道に毛の生えたような面積でしかなく、丹波の陸地全体から見れば千分の一にも満たない離島でありながら、その島ばかりが独り燦然と輝きを発しているようなものなのだ。

現状では、それに迫るほどのインフラと人口を有する領域と言えば、辛うじて隣接する秋桜ぐらいのもので、それが又若者の直轄領なのである。

このような丹波の状況から見れば、甚だしい一極集中が起こっていると言うべきなのだが、多くの論調において、現在の統治形態と税制が存続する以上、それが一過性のものだとは評されてはいないのだ。

その上、現在は未だ地球上で稼動しているものであるにせよ、秋津州財団の膨大な女性職員の存在がある。

その一部はヒューマノイドだと言われているにせよ、「彼女たち」は諸国の現地支所に隈なく配備され、秋津州国にとっては言わば外務官僚に準ずるような職務に就いており、現地におけるビザの発給事務まで代行しているのだが、例のアキツシマ学校の関係者まで加えれば、その数は百数十万にも及ぶと言われているほどだ。

これ等の秋津州人たちもまた、いずれ八雲の郷に引き上げる筈だと囁かれており、そうなれば、結局八雲の郷の居住者は軽く二千万を突破すると見る向きが多いのである。

更に加えて、一部アナリストなどによれば、秋津州は食糧やオイルや工業品の自給率においても数千パーセントもの高率を誇っており、丹後や但馬、挙句に佐渡と言う荘園の存在を踏まえれば、その数値は最早無限でさえあると言う。

まして、秋津州が産み出す工業製品は、その技術面や生産性においても圧倒的な優位性を保ち続けていることは事実で、その象徴的な存在として各種のPMEとベイトンがあり、加えて、丹波の空を駆け巡る無数のSS六の存在は途方も無く大きい。

その他にも、八雲島の巨大造船所では、各種のPME型船舶が大量に進水を果たし続けており、これなどは、とうに凄まじい買い付け競争が始まってしまっていると言う。

何しろ、王の直轄領に限らず、既に台湾やアフリカの各地などでは、大型の商港が続々と開港し始めており、その他の地域においても、その流れが一段と加速して行く見通しなのだ。

これ等の事実を踏まえ、八雲の郷の一の荘は、将来においても丹波随一の金融・商業都市としての地位を保ち続けると予測する者も少なくないが、例え地球の運命がどうあろうと、人類社会が丹波において、多様な経済取引を可能とする環境と実効性のある決済手段を持ち得たことは、今後に向けて決して軽いものでは無かった筈だ。


一方七カ国協議の席上などでも、当然これ等の状況を踏まえた議論が戦わされることになる。

丹波ではSS六のチャーター便によって相互の移動手段が確保されている上、大和文化圏と称される領域に限って、既にさまざまな市場が立ち上がりつつあり、その安定した優位性が近い将来強烈なメッセージを発するだろうと、揃って各国が見ているのである。

ケンタウルスの一件がある以上、そのメッセージは、地球上のマーケットにとって身震いするほどに凄まじい効果を発揮するに違いない。

それで無くとも、そのマーケット自身が、その市場原理に基づき既に激しく反応してしまっているくらいなのだ。

まして、丹波市場における基軸通貨の座は今や明らかに秋津州円のものであり、辛うじてではあるにせよ、それに続くものは唯一日本円なのである。

加えて、新たな日本領である敷島だけが、早くも大和文化圏と称する経済圏に歴然と参画するまでに成長して来ており、その先行性が各国にとって真に恐るべきものだと言って良い。

現状では、国土建設工事の進捗状況だけを捉えて見れば、日本に続くものは台湾共和国とアフリカ諸国だと言うことになり、その他の国々は置き去りにされてしまう構図すら見え始めており、このままでは、丹波における市場の生み出す果実は、全て秋津州と日本に独占されてしまうかも知れない。

自由貿易万能の現代における国力が、なおのことその経済力に依存せざるを得ない以上、この実情は各国にとって見過ごすことの出来ない重大問題だと言って良い。

詰まり、丹波市場へのこれ以上の出遅れは、各国共に致命的な損失を招いてしまう恐れが高いのだ。

七カ国協議において、日本以外の六カ国は、全てこのような焦りを感じながら意見を戦わせていることになる。

ちなみに現今の七カ国協議では、ケンタウルスの真実とその対応策を同時に発表し得ることを殊更重く見る意見が圧倒的であり、ここに来て各国の新領土が確定したことによって既に対策の目処は立ったと見て、残る問題はその公表の時期に絞られると言う流れになりつつある。

しかも近頃では、一刻を争うと言う見解と、より多くの時間が必要だとする見解が拮抗し、それぞれの見解に国家の利益が重くのしかかって来ており、いずれもが簡単に引き下がる事は当然ながら出来ない。

混乱を防ぐ意味でもその公表は一刻を争うと言う見解は中露が主張し、より多くの時間が必要だとしているのは米英両国だ。

仏独両国は言わば日和見を決め込み、残った日本はほとんど議論には参加せず超然としている。

無論、日本が逃げているわけではない。

例によって、例え他の六カ国が何を決議しようと、日本は既に「他国の政治姿勢の如何を問わず。」なのである。

但し、日本としても事態は痛切だ。

殊に物価や人件費の高い日本の場合、この未曾有の危機を突破して行くためには、群を抜いて莫大な資金が必要でありながら、正規の公債は発行するわけには行かないのである。

それも、十兆や二十兆ではとても済まないほどの巨額になることも目に見えており、それほどの危機的状況にありながら、公債を発行するにしても、その必要性を正直に公表することが許されない以上、制度上から言ってもどうすることも出来ない。

通常、一定以上に整備された国家ならば、その行政は全て予算を執行することによって動くものなのだが、日本においては、秋津州対策室に付与されたもの以外その予算が無いのである。

国井は、秋津州対策室の経費に関しては本予算はもとより、補正の段階においてもかなり甘めの数字を計上しており、その上、日本人秋津州一郎氏の協力に基づく例の隠れ予算も有るにはあるのだが、それにしても到底足りる筈は無い。

先頃までの国井は已むを得ぬこととは言いながら、数多くの脱法行為に手を染め、既に年金会計にまで手を突っ込んでしまっており、この意味一つ取っても、目前の危機を回避するためには不退転の決意を固めていたことは確かだ。

ただ、ことここに至って従来であれば想像も出来ないほどのことが起きたのである。

なんと、各省庁から相葉を通じて、合わせて十五兆を超える資金の拠出があったのだ。

各行政官がぎりぎりの国家目標を共有するに至っていたことが、図らずも証明されたことにはなるだろう。

続いて、土竜庵からも巨大な拠出があった。

それも、日本円に換算して八十兆もの巨額であり、既にそれだけで一般会計の総額に匹敵するほどのものである。

無論、原資は秋桜資金であり、新田としても悩ましいところであったのだ。

なにせ、この資金のそもそもの原資はその殆どが秋元姉妹の拠出によるものである上に、その用途は「秋桜国」の樹立と運営を安からしむるためとしていたことは既に述べた。

また、この場合秋元姉妹の拠出とは言うものの、その実態は全て国王であることも承知しており、そうである以上、このケースで新田の独断で費消してしまうことには問題無しとはしないであろう。

第一、使用目的が違うのだ。

思い悩んだ挙句、思い切ってかの若者にぶちまけて見たところ、その反応には更に驚かされてしまった。

若者は、元来秋桜国の建設自体、いったい何のためのものだろう、と言うのだ。

はっと、気付かされたのだ。

自分が、いい年をして明らかに冷静さを欠いてしまっていたことをだ。

秋桜国の建設にしても、その目的は全て日本国の存続のためであって、ことにあたって、その日本国が滅んでしまえば、秋桜もへったくれも無いではないか。

新田はその意思を女帝に連絡し、運用中の資金の中で早期に手仕舞い出来る分だけを急遽取り崩し、そのまま国井内閣に渡したのである。

無論、その金は内閣の掴み金として扱われ、地球脱出のための言わばステーションとなる諸方のアクセスポイント関連と、丹波における新領土の国土建設の費用として使われて行く。

それも、一切小出しになどせずに、思い切り大胆に使っている。

その結果、地球脱出のための準備作業に関しても他国に抜きんでる勢いを示しており、新領土である敷島のインフラ整備も、既に大規模な部分に限っては完成間近だと言って良いほどだ。


何せ、国井が相葉や新田と共に作り上げてきた新国家の国土建設プランがあり、国王の最大級の協力体制を得られたのだ。

挙句、既にほぼ完成を見た秋桜(新垣の郷)の存在が途方も無く大きい。

既に、一時的なものに限れば、秋桜だけでも全国民の収容が可能なのである。

今はもう、新たな日本となるべき敷島のより高い完成度をただ黙々と目指すのみなのだ。

かと言って国井が、世界貿易の相互補完の重要性を軽視しているわけではなく、出来る限り豊かで安定感のある市場が丹波において復活してくれることを望んでおり、だからこそ北米やEUの早期の参画を願っているのである。

時が流れる中一方で中露両国の場合、蒙、印、チベット、東トリキスタンなどとも駒を並べ、国王に請願して大規模な秋津州軍の投入を得たことにより、猛然たる勢いで新国土の建設が進んでおり、既に相当な部分で見通しが立つことから、ケンタウルスの件の公表を急ぐのだ。

その国土建設プランにしてもかなり大雑把なものではあったが、あと一月も経てば、移転先の状況についてもそれなりの説明が可能になる見込みがあり、地球脱出作戦を公表した後は例によってその国民を大声で叱咤するばかりなのだろう。

殊に中露両国においては、国王にその眉を顰(ひそ)めさせるような光景も見られなかったわけではない。

なんと彼らは、巨大アクセスポイントの建設にあたって、その用地を全て既存の鉄道に沿って求めたのである。

それも、主要な路線が多数乗り入れているところにばかりであり、道路なども既に立派に通っているところばかりだ。

そうである以上その地は無論茫漠たる原野などではない。

人間にしても物にしても各地から膨大な量を集積する必要がある以上、そこへの交通の便と言う観点から見れば当然と言えば当然なのだが、生憎その用地の候補地となったところには、それぞれかなりの数の住民がいたのだ。

結局、彼らがやったことと言えば反対住民の圧殺と排除であり、銃剣を以て公収された各用地では、数万とも数十万とも言われる犠牲者の屍を踏み越えながら、ひたすら強引にそれが行われたことになる。

国家的な危機を前にしても、日本などでは如何に交通の便が悪くても、用地として住民のいない自衛隊の演習地などを選び、巨大なコストを負いながら改めてそこに鉄道を引き、道路を建設し、なおかつ種々の施設を設けた。

とにかく、膨大な費用を掛けたのである。

だが、翻って中露などの方式では、その費用も時間もはるかに少なくて済むことは確かだが、負の要素として人道上の問題が発生してしまうことは覆うべくも無い。

反対住民たちの膨大な死体の山を前にして、各国メディアの轟々たる非難を浴びてしまったのも当然だ。

だが、両国の当局者に言わせれば、数億もの民を救うためには「この程度の犠牲」は已むを得ないと言うに違いない。

何せ、残された時間は過小であり、その上潤沢な予算を掛けられないことも衆目の一致する所なのだ。

もたもたしていたのでは到底間に合わないことも判ってはいるのだが、それにしてもあまりに酷い現実に接して、若き王は「他国の施政」に介入することこそ無かったものの、「統治」について生きた修行をさせてもらったと洩らすばかりだったと言う。

ことほど左様に各国の対応にはさまざまな状況がある。

アフリカ諸国などは、キャサリンと言う貴重なパイプを持ち得たことを奇貨として、明らかに一歩先んじており、その他中南米や東南アジア、そして南太平洋の諸国なども中露に遅れじと走り出している。

無論その全てが、王に懇請して秋津州軍の派出を求めているのである。

若干出遅れたとは言いながら、中東や中央アジアの諸国からもインドなどの顰(ひそ)みに倣い、一斉に秋津州軍の派遣を懇請して来ており、見渡したところ国境線は別にして、丹波において秋津州軍の旗が立たない領域は北米とEU諸国と豪州くらいなものなのだ。

この三つの領域では、議論百出して未だに国土建設に関する総合的なプランは完成を見ておらず、新田などに言わせれば衆愚政治の典型例を見る想いだ。

殊に合衆国などでは、各州それぞれの間でさえ利害が対立してしまうケースが目立ち、州知事の中には、ケンタウルスの真実を先に公表しない限り、自州のプランすら成り立たないと嘆く者さえいる。

民主主義政治の最大の弱点がここにあることは明白で、制度上の民意を問うている余裕が無い以上、結局為政者自身が殺される覚悟で決断するほかは無いのだが、無論、その決断が米国民の全てを喜ばせることなど出来る道理が無いからだ。

その決断の基準は真の意味の国益であり、この場合の国益が、国民にとって最終的な利益であることは言うまでも無いが、それにしても、民主主義政治を謳い、合衆国憲法によって各州の自主性が手厚く守られているその国では、種々の問題が起こるべくして起こってしまっていると言って良い。

公式には上下両院どころか、州議会にすら諮れない以上、使える予算もままならず、ワシントンで作成された独自案一つ取ってもその実行は覚束ない。

人類の滅びに向かうタイムテーブルが容赦なく回り続けているにもかかわらず、本来獰猛な性向を持つ筈の白頭鷲が、手乗り文鳥に変じたまま、ただ力無く囀っていることになるのである。

だが、そうは言っても、合衆国にとっての周辺事態は否応無く進んでしまっており、しかも恐るべきことに丹波への出遅れが決定的なものとなりつつあるのだ。

とにかく、無尽蔵と思わせるほどの資材を伴った秋津州軍の威力があまりに凄まじく、その支援を受ける国々の作業ばかりが予想をはるかに超えて進捗するさまを見るにつけ、今さらながら慌てふためいてしまっていると言うほかは無い。

超長距離の幹線道路や巨大港湾の建設など、本来どれ一つとっても優に五年以上の歳月を要するほどの大土木事業である筈が、それも千も二千も同時進行でほんの数週間で仕上げてしまうなど、ワシントンでは予測出来る筈が無いと叫んだと言うが、秋津州には既に秋津州湾の掘削工事の驚くべき前例があり、それは衆人環視の中で行われた筈なのだ。

多少柔軟な想像力を持ってさえいれば、予測出来ない筈が無いのである。

そうであるにもかかわらず、それでなお、秋津州の動員能力と兵站補給能力を過小に評価した。

それも、甚だしく過小に評価してしまったと言って良い。

タイラーの友人である若手官僚などは、ホワイトハウスの結論にあるその値(あたい)は、秋津州の実態から見れば、驚くべきことに二百分の一に過ぎないとまで言うのだ。

詰まり、秋津州の実力(動員能力と兵站補給能力)を二百分の一に見積もってしまっていたことになり、同時にそのことは、秋津州軍による土木工事の実態が、ワシントンの描くイメージの二百倍の進捗速度を示すことになってしまうのである。

二倍や三倍では無い、二百倍なのだ。

そもそも、ワシントンの描く新国土建設に関するイメージでは、魔王の直轄領と敷島(新日本)を除けば、少なくともその他の領域とは充分に伍して行ける筈であった。

あとは、合衆国の強大な経済力があり、その威力を以て、丹波においても経済的な覇権を充分保持出来ると踏んでいたことになる。

ところが、今になってみると、最早そのイメージは現実とは無残なほどに乖離してしまっており、そのことを否応無く認めざるを得ないところにまで追い詰められてしまった。

なにしろ、合衆国の固有の領土として割り振られた領域では、さまざまなデータ収集に明け暮れるばかりで、具体的かつ本格的な大土木工事など未だ始まってさえいないのである。

いずれにしてもワシントンは、秋津州戦争のときに続いて、又しても大きなミスを犯してしまったことになる。

このことによって、ワシントンの戦略が明らかに破綻しつつある以上、当然ながら、その焦りもいや増すばかりで、ケンタウルスの真実について中露などの主張する早期の公式発表など、なおさら飲める話では無くなってしまった。

それに比べて中露両国のよって立つところは、見事なまでに対照的だったと言って良い。

何せ、それらの国々では、以前ほどでは無いにせよ、一部の指導層が決定しさえすれば、民の一部が泣こうがわめこうが、全てを粉砕するような勢いでことを進めることが可能なのだ。

国王に請願することによって、近頃爆発的な勢いで国土建設が進み、丹波移住の方策について既に具体的な目処が立った今、欧米勢力を一気に抜き去る絶好のチャンスと捉えたのだろう。

欧米勢力がそのプライドに拘るあまり国王軍の駐留を忌避し、かつ遅疑逡巡を繰り返していることを良いことに、ケンタウルスの真実を一気に公表し、地球上のマーケットが壊乱している機に乗じて、丹波のマーケットにおける優位性を決定付けてしまおうと目論んでいるに違いない。

急がねば、丹波の市場が腰の据わった体制作りを完了してしまいかねず、そうなってしまってからでは、例えケンタウルスの真実を公表してみたところで、たいした恐慌は起こりそうに無いのである。

それでなくとも欧米の私企業が八雲島に猛烈な勢いで参入を果たし始めており、欧米側はこの点から言っても時間を稼ぎたいところだ。

自国の新領土の準備が遅れているからばかりでは無いのである。

当然、七カ国協議の議論は膠着するばかりだ。

 ◆ 目次ページに戻る

  1. 2007/09/27(木) 13:42:54|
  2. 妄想小説 主権国家|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。