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日本大好きじいさんの落書き帳

自立国家の建設 078

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さて、いかにも唐突だが、ここに、東京に本社を置く堂々たる一部上場企業がある。

世界中に支社を持ち、手広く事業を展開する「味の友」と言う総合食品メーカーなのだが、もともとは天然の砂糖きびを原料とする調味料から出発し、清涼飲料水や医薬品の分野においても名が有り、何よりも「ヒトに優しく」をポリシーとする、日本人にとっては馴染みの深い優良企業と言って良い。

しかもグループ連結で言えば数兆円もの売り上げを誇り、膨大な傘下グループの中には、先進的なバイオテクノロジーを駆使して農産物の品種改良を本務とするような部門まで併せ持つが、それがあのコーギル社と密接な資本提携関係にあることまではあまり知られてはいないだろう。

なお、この場合のコーギル社とは、無論、ダイアン・コーギルの父親がオーナーをつとめる世界屈指の複合企業体のことに他ならないが、近年秋津州産の鯨肉や多様な穀類までが専らコーギル社のネットワークに乗って流通しているとされることから、秋津州との特別な関係が取り沙汰され、近頃ではすっかりその影響下に入ったとまで囁かれている以上、この「味の友」と言う企業にしても秋津州との繋がりが無いとは言えないことになる上、同様にコーギル社と深い関係にある日本企業は他にも驚くほど多数に上っているのだ。

また、一方において、自動車産業や家電業界のように、PME(永久運動機関)を必要とする産業は世界に溢れてしまっており、その高度な技術は言うまでも無く秋津州の占有とするところであり、彼らにとっても秋津州は他に代え難い存在となってしまっており、このような背景を持つ以上、なおのことそれは屹立した存在であり続けるのも当然のことで、消息通と言われる者の言説を借りれば、その影響力は、マーケットにおいて既に世界を覆いつくすほどに肥大化しつつあることになってしまう上に、政治的な意味合いにおいても近年東アジア情勢が激変し、中国首脳による靖国神社参拝までが、ごく普通の外交儀礼として扱われるほどに象徴的な状況が眼前にある。

しかも、今般大韓民国が文字通り消滅し、新たに半島全域を統治することとなった政権にしても明らかに親日的な政治姿勢をとりつつあり、かつて中韓等の創作による近代史観が眼前に大きく立ちはだかり、それに抗うことが即刻商業的な損失に繋がっていたものが、今やこの色合いそのものが逆転してしまったのだから、日本の産業界が重視すべき対象としてのそれも当然大きく変化せざるを得ない。

今では日本の産業界の商業的ニーズが鮮やかに逆転し、あたかも鳴門海峡に見る渦潮のような激しい動きが起きつつあると言い、またある人は、その渦潮の中心にいるのは味の友やトヨベ、或いは家電産業の雄たる某社であろうとも言うが、そこから派生した巨大な潮流によって、遅ればせながらひそひそと変化を遂げる業界もあったのだ。

言うまでも無く広告業界とマスコミである。

殊に株式会社便通と言う業界きってのガリバー企業が、トップの交替を機にそのスタンスを大きく変えたと囁かれ、それに伴い、民放各局とその親会社たる新聞社たちも、呆れるほどに姿勢を変えつつあり、各紙各局が、敗戦後の自らの報道姿勢について挙って言及し、占領軍によって、全く本意としない内容の報道を強いられていたことを大々的に取り上げ始めた。

一種のブームのような状況になったと言って良い。

遂にはかのNHKまでが同調し、重々しく懺悔を始めたのには多くの日本人が驚かされたのだが、やがて「真相はかうだ。の真相」なる番組を流し始め、自らが戦後散々に報じた近代史に関する報道について、その内容は事実に基づいてなされたものでは無かったことを認めたばかりか、全てGHQの脚本に基づく以外、如何なる報道も許されなかった状況にあったことを強調し始めたのである。

詰まり、その当時、進駐軍に強制されて大嘘の報道を垂れ流し続けたことを声高に主張したことになるのだが、結局、全マスコミが近代史の洗い直し作業と称し、さまざまな過去の史実を積極的に取り上げるまでになった。

しかも、それらの「史実」は、従来触れられることの少なかった事柄で溢れんばかりであり、殊に千八百八十六年(明治十九年)八月に起きた長崎事件をテーマとする番組においてなどは、当時の時代背景を描写するにあたって、東アジア及び東南アジア領域においては、白人列強に侵食され続けた結果、独立を保っている国はほとんど無いに等しいことにも詳細に触れ始めており、朝鮮半島において消長して来た国々だけは、長きにわたって元、明、清の属領として存続して来てはいたものの到底独立国としての呈を成していなかったと言い、しかもその大清帝国自身が太平天国の乱によって自ら疲弊し、対外的には第一次、第二次アヘン戦争と立て続けに英国にしてやられてしまっており、西方からは、北の狼が露骨に侵食(イリ事件)してくる上に、千八百八十四年(明治十七年)から翌年に掛けて闘った清仏戦争にも敗北し、ベトナムの宗主権争いにまで敗れ去っていたとしていたが、実際歴史は我々に多くを語ってくれているのである。

その視点に立てば、この状況下において、大清帝国は国運を賭して北洋艦隊を建設したことになり、中でもドイツで竣工した「定遠」「鎭遠」と言う姉妹艦が当時としては途方も無い代物(しろもの)だったのだ。

何せ三十センチ連装砲四門を備え、船腹には三十六センチ近い装甲を施した最先端の巨大装甲戦艦であり、排水量一つとっても、当時の日本の主力艦の数倍にも当たるほどのものだったことは小さくない。

如何せん、日本の軍艦は当時未装甲(木貼り)のままで、備砲の威力においても哀れなほどに大差がある上、言ってみればその二隻の最新鋭艦は、衰運の大清帝国が世界に誇示し得るほどのものであって、やがて清国当局の命により勇んで国威発揚の旅に出る事となり、かくして栄光の北洋艦隊は日本に到来し、横浜、神戸、呉、長崎と巡航を重ね、行く先々でこの巨艦への参観を許し、多数の日本人にその威容を見せ付けながら巡って行くのだが、その旅は親善友好のためばかりでは無かったのである。

当時清国最大の実力者であった李鴻章の言にもある通り、まさにそれは、長らく見下して来た東方の小国を威服せしめるためのものと言うほかは無く、その気分は、北洋艦隊の水兵たちの間にも、その隅々にまで行き渡っていたであろうことは想像に難く無い。

その結果、艦隊が長崎に寄港の際、上陸した水兵たちが無法にも日本人警官に集団で暴行を加え、挙句に数百人もの人数を以て警察署にまで暴れこみ、大騒動を引き起こしたのが世に言う「長崎事件」なのだが、当時の清国兵が上陸時に傍若無人の振る舞いを見せるのは、目だって半島と日本に対してであり、清国側から受けつつあるこの耐え難いまでの侮りこそ、後の日本の針路にとって重く影を落とすことになる。

結局、この騒動においては、長崎現地の一般市民までが加勢に加わり、双方ともに相当の死傷者を出してしまうのだが、事後の二国間交渉においても、弱小であるが故に、日本側が不当に辞を低くせざるを得なかった気配が濃いことから、今般新たに報道された番組の中では、「両国の力の差が歴然としていたがため、日本側の苦渋が公式記録の行間から滲み出て来るようだ。」と言うナレーションが流れ、当時の日本人の切々たる心情をいみじくも代弁していた。

なお、この事件の起きた千八百八十六年(明治十九年)と言う年は、両三度に亘る英緬戦争を経てビルマ王がイギリスに降伏し、ビルマ(現ミャンマー)の残りの領土までが、全て英領インド(インドはとうに英国領)に編入されてしまった年でもあるのだが、この前年の千八百八十五年は、オランダ領東インド(現インドネシア)において、ロイヤル・ダッチ社(現ロイヤル・ダッチ・シェル)が油田の開発を行い、記念すべき初採掘に成功した年でもあったし、直ぐ隣のフィリピンなどはとうの昔(十六世紀後半)にスペイン領となり果ててしまっており、その地においても、先住民にとっては生存権すら保護されることは無かったのである。

現にオーストラリア亜大陸においても容赦なく「惨劇」は進行し、千八百二十八年にその全土がイギリスの植民地と化し、新たに持ち込まれた疫病や、スポーツと称して行われた凄まじい大量殺戮の結果、純血のタスマニア先住民などは、あろうことか文字通り「絶滅」させられてしまっていた。

その民は、獣などでは断じて無い。

紛うかた無き「人間」であった筈なのだ。

翻って、いわゆるアメリカなどと言うものは、当初英国によって囚人の流刑地として利用された挙句、ヨーロッパ各国の植民地となった後、紆余曲折を経て英国の植民地十三州に棲み付いた白人たちが、十八世紀末に至って「勝手に」建国した国であると言って良いだろう。

「勝手に」と書いたのは、判り切ったことではあろうが、「肝心の先住民の存念には全く配慮を払わずに」と言う意味であり、先住者が太古の昔から棲み暮らしていた土地を、合理的な理由もなしに、力任せに強奪したと非難されても弁解の余地は無い。

結局この慈悲深き白人どもは、膨大な先住者を徹底的に駆逐するに至るのである。

いや、彼ら自身の意識の底では「駆除」であったと言うべきか、さらには、安価な労働力として、主としてアフリカ大陸から黒人奴隷を盛んに「輸入」しながら、欺瞞と腕力を用いてひたすらその版図を拡大して行った。

ちなみにその建国は千七百八十三年のこととされ、日本で言えば十代将軍家治の治世の末期に当たり、既に日本自身も、ロシア帝国による重大な脅威を受けつつあったのだが、そのことによって、日本の各地で相当数の犠牲者を生じていた事実を知る日本人は少ない。

さて、多くの原住民の駆除に成功し、いよいよ白人の支配するところとなった「アメリカ」は大いに工業化を図りつつ、千八百四十六・七年に南方のメキシコを侵略(米墨戦争)、メキシコの北側半ばを奪取するなどしながら猛然と領土を拡張しつつ、時の大統領は日本へのペリー艦隊派遣を決定することになる。

何より記憶されるべきことは、この時点までの日米間に国交と言うものが一切無かったことで、その状況下で突如(千八百五十三年)浦賀に現れた米艦隊なのであり、あの砲艦外交が当時の日本政府(徳川幕府)を散々に悩ませ、我々日本人にとって忘れ難い衝撃を与えたことは間違いない。

この時の「アメリカ人」のとった人も無げな振る舞いこそが、その後の日本を、大きく変えることに繋がって行ったことだけは確かなのだ。

その後の「アメリカ」は千八百六十年代に熾烈な内戦(南北戦争)を経て自ら疲弊し、いっとき退嬰したがその後瞬く間に勢いを取り戻し、千八百九十八年には強引に米西戦争を引き起こしてスペインを完膚なきまでに叩き、猛烈な勢いで太平洋に進出し、フィリピンにおいて現地政権と衝突(米比戦争)し、現地人を大量に殺戮しながら支配権を確立するに至るのだ。

無論、英仏蘭なども支配地の拡張にしのぎを削っており、結局のところ、アフリカ大陸と南北アメリカ大陸、そしてアジア太平洋一帯まで全て白人列強の草刈り場と化し、インドシナ半島においても、辛うじて独立の体を保つことが出来たのはタイ一国くらいのものだったのだから、白人列強の手によるアジア太平洋への侵略劇は、当時の日本人にとってみれば、まさしくその眼前で進行していたことになる。

当然、当時の日本人は戦慄した。

当然であったろう。

こちらが泣こうが喚こうが、誰も助けてくれないことは現代にあっても同様だが、何せ現代とは先住民の自決権についての概念が違う。

キリスト教を奉じる白人列強の目には、非白人の異教徒の姿など全て未開人としか写らない以上、「未開人」たちをどう扱おうとも、そのルールは全て彼ら自身が定めてしまっていたのだ。

現代人としては信じ難いことだが、彼らの定めたルールにおいては、「未開人」はキリスト教文明に染まらない限り、速やかに「駆除」されるべき存在でしか無かったのである。

断言して置くが、当時無力な「未開人」たちは、白人世界に対して何一つ脅威を与えるようなことは無かった筈なのだ。

相対的な意味でその防衛力はそれぞれ問題にならないほどに水準が低く、だからこそ容易に侵略を受けて駆除されてしまったと言うほかは無いのだから、防衛力を持たず、可愛げのある微笑みを浮かべてさえいれば、殺されずに済んだわけではないのである。

そこに来てのこの長崎事件だ。

あの大清帝国までが日本を蛮夷と看做し侮蔑し、あまつさえ強大な海軍力を誇示して軍事的威圧をさえ加えて来る。

ことここに至って、如何に弱国とは言え、日本としても座して死を待つには忍びないものがあっただろう。

当然、眼前の北洋艦隊の脅威に対抗し得るほどの建艦の必要に迫られ、その建造費を捻出するにあたり「建艦公債」を発行したところ、清の示威行動に触発されていた国民が挙って応募したと言うが、実質的戦時公債を購入してまで、国民自らが欣然その意思を示したものと言うことが出来よう。

小国日本はそれこそ決死の想いで軍備を整え、これによって「明治二十七八年戦役(日清戦争)」を闘うことになるのだが、この戦役は、千八百九十四年(明治二七年)七月二十五日豊島沖海戦によって火蓋が切られたのだから、思えば、千八百八十六年(明治十九年)の長崎事件から数えて、未だ十年の月日も経ってはいなかったのである。

結果は、清国自身はもとより列強全ての予想をも覆し、海戦陸戦ともに日本側の文字通りの圧倒的勝利に終わり、この戦役における清国軍、殊に陸兵の戦闘能力に対する評価が、その後の日本人の精神構造に及ぼした影響は決して小さなものではなかったろう。

何しろ清国軍は、ときとして、将領みずから真っ先に遁走してしまうケースが数多く見受けられ、当然戦闘の指揮を執るどころの騒ぎでは無い。

とにかく、このときの清国兵には、日本軍の進撃に遭うと、あまりに簡単に陣を乱して逃げ走るものが多く、その敗兵は行く先々の現地住民たちに多大の災厄を齎す始末であったと言うが、何せその正規軍「八旗」は漢民族にとって異民族である満洲族(支配者層)の世襲制であった上、既に全く官僚化して軍としての実態を失ってしまっており、もう一つの正規軍として「緑営」が漢人だけの編成で存在したとされるが、やはりこれも物の役に立つ状況にはなかったと言われる。

これ等の職業軍人たちは、両軍合わせて八十万とも百万とも言われていたようだが、今にして思えば、日本の幕末期における「旗本八万騎」の内実を彷彿とさせるものがあったに違いない。

結局、正規軍が実戦部隊として有名無実であることが露呈してしまったため、代わって組織されたのが「勇軍」と「練軍」だったとは言うが、これもまたさまざの問題を抱えており、例えばその司令官の軍事素養一つとっても問題が無かったとは言えないだろう。

何と、彼らは文官だったのである。

真っ先に逃げる筈だ。

その上、そのそれぞれが縦割り行政の弊害をそのまま具現化したような別個の指揮系統に属しており、全軍を一括して統帥運用出来るようなシステムなど持ってはいなかったのだから、国家戦略に基づいた「戦争」など望むべくも無かったろう。

国家自体が老廃してしまっていたことが、この一事を以てしても明らかなのだが、一方の日本ではその後清国兵を弱兵と見る風潮が世を覆うほどのものとなり、それに伴う強固な固定観念が芽生え、やがてそれは軍部の中だけにとどまらず、日本人そのものの中に深々と埋め込まれてしまったと言うべきか、あろうことか、この戦役を境にして、今度は日本人が清国を侮るようになってしまうのである。

それはさておき終戦処理のために締結した下関条約では、その第一条において、それまで大清帝国の属国であった李氏朝鮮の独立を、わざわざ清国側に認めさせていることはとりわけ重大であろう。

これにより、初めて「大韓帝国」が誕生し、その王はやっと「皇帝」を自称することを「許され」たのだ。

一方、北方の巨獣ロシアは、太平洋へ進出するため、その玄関口としての「不凍港」を求め、南下の圧力を露骨に強めて来ており、現に千八百六十年には清国から沿海州一帯を奪い、その南端に建設した軍港の名をウラジオストクと名付けている。

日本海を挟んで日本列島を睥睨する軍港ウラジオストク、そのロシア語における意味こそ、そのものずばりの「東方を征服せよ」だったのであり、地図を見れば一目瞭然だが、そこから東方を眺めれば日本列島以外に何があるというのか。

だが、大ロシア帝国の版図において最南部に当たるこの軍港でさえ、惜しいかな冬季には氷結してしまい、その厳寒の気象が、如何なる艦船の出入りをも厳しく阻むのである。

従って、彼らがより南方に足掛かりを欲していることは、それこそ世界中が知っていた。

常識なのである。

このような情勢下で、朝鮮の宗主国であった清国自身が、既に自国の領土すら保つ能力を失ってしまっている今、日本人はおろか全ての列強の目には、朝鮮半島など単にロシアの南下のために用意された自然の回廊としてしか写らない。

当時の日本人の目には、李氏朝鮮の自主自立こそが、日本の生存にとって欠くべからざるものと写ったからこそ、日清講和条約(下関条約)の第一条にかくの如く謳ったのだ。

「清國ハ朝鮮國ノ完全無缺ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ朝鮮國ヨリ清國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ」

(出典、アジア歴史センター「御署名原本・明治二十八年・条約五月十日・日清両国媾和条約及別約」。以前、戦費調達に関する話題でも取り上げたが、今回は原文のまま)

この日清戦争についてはもう一つの着眼点があってしかるべきであり、無論それは、白人列強の視界に写る日清両国の位置づけであったろう。

何せ開戦前夜における列強は、清国を「世界の列強国の一員と見做し、唯一無二のアジアの大国」と位置づけており、日本などとは比べるまでも無いと断じていた。

日本など、言わば員数外だったのだ。

ところがこの戦役によって、その評価が一変してしまった。

清国は膨大な人的かつ資源的基盤を持ちながら、いずれの戦闘局面においても、いちいち信じ難いほどに無様な負け方を演じ続け、その官僚組織の腐敗と無能振りを世界の観客の前に曝け出してしまい、そして一方の日本はと言えば、見事なまでに対照的であったのだ。

小国ながら、その国家システムを活き活きと運用し得る能力を存分に示し続け、その結果一気に世界の桧舞台に立たされることになったのである。

さて、この戦役の終了を告げる講和条約(下関条約)が目出度く(?)締結を見たのは、千八百九十五年(明治二十八年)四月十七日のことであったが、その直後日本人にとって戦慄すべきある「事件」が起こった。

いわゆる「三国干渉」だ。

その「要求」が、露仏独の三国から揃って突きつけられたのは、条約締結後一週間にも満たない四月二十三日のことである。

実は下関条約は、朝鮮の独立や賠償金の支払いと並んで、台湾や遼東半島の割譲をも謳っており、ロシア皇帝にとっては、なかんずく遼東半島の割譲と言う条文が気に入らない。

「割譲」と言うからには、未来永劫日本の領土となってしまうのだ。

そこはもともと自分が狙っていたところであり、それが日本などに割譲されてしまっては、あとあと何かと面倒なことになるから、名目上は、「アジアの平和のため」だとか何だだとか、心にも無い平和主義を振りかざし、返してやれと言って来たのである。

念の入ったことに、フランスやドイツまで語らい、さらには極東艦隊(ロシア海軍)をわざわざ山東半島の北方沖に集結せしめ、露骨に恫喝しながらの勧告であった。

ロシア皇帝としては、日本の返答次第では一戦も辞さずと言う強固な意志を示して見せたことになるが、当時の日本はロシア一国だけでも手に余る上に、さらにフランスとドイツまでが協調している。

要求を蹴れば開戦は必至であり、ロシアとの国力の差は無惨なほどに懸絶してしまっている上、清国との戦争にやっとけりをつけたばかりなのである。

戦後処理だけで手一杯のありさまで、とてものことに対露戦の準備どころの騒ぎでは無い。

初めから勝負にも何もならないのだ。

闘えば、無論必敗であり、敗戦の結果、皇居にはロシア総督が居座り、そこには帝政ロシアの三色旗が翩翻と翻ることになるだろう。

まして相手がロシアである以上、占領されたあとの日本列島からは、多くの日本人がシベリアなどの僻地に強制移住させられる運命にある上、日本人の人権どころか生命さえ保証の限りでは無く、私有財産などに至っては、めぼしいものは制限どころか問答無用で略奪されてしまう。

こう言った理も非も無いロシアのやり口は、後年見事に実証されることになるのだが、無論、それが昭和二十年のことであることは、今更言わずもがなのことであろう。

まして、現代とは違う。

当時の帝政ロシアにおいては、現に過酷な迫害を受けるユダヤ人等の少数民族の存在があり、敗戦日本だけが特別に優遇される理由など、何処にも見当たらなかったのである。

詰まり闘えば、日本人そのものが流亡の民と化す運命が眼前にあったことになり、文字通り万事休した日本は已む無く遼東半島を清国に返還したが、大国の横暴に屈せざるを得なかった日本人がすべからく歯軋りし、捲土重来を心に期したのも当然のことであったろう。

この件においての三国のリーダー格は無論ロシアであり、新聞紙上に「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」の文字が躍り、当然民心は帝政ロシアに対する敵愾心で満ち満ちたのである。

なお、かの国(清)には、古来「夷を以って夷を制す(以夷制夷)」と言う言葉があるやに聞く。

野蛮人を掣肘するに、専ら他の蛮国の力を利用すべしと言う意味だが、清国当局からすれば、定めし「北夷(露)を以て東夷(日)を制す」であったろう。

但し、結果において、清国の思惑は見事に裏目に出てしまうことになる。

アジアの平和維持のためと称して返還させた筈の遼東半島は、こともあろうに、その後数年を経ずしてロシア自身が獲ってしまい、ドイツはドイツで膠州湾一帯を占領、フランスも負けじとばかりに広州湾を奪った。

名目上「租借」とは言うものの、その期限は延々と更新させられてしまうことから、実質半永久と言うべきものであって、清国当局としては如何ともし難い状況に立ち至ってしまったことになる。

何せ、大清帝国は対日戦に完敗したことによって、往年の「眠れる獅子」としての威望を完全に失ってしまっていたのだ。

眠っているとばかり思っていた「獅子」が、実はとっくに死んでいたのである。

少なくとも目覚めはしなかった。

この現実が列強に与えた衝撃は大きかったであろう。

今までのような遠慮は無用になったのである。

その脂身(あぶらみ)は見る見るうちに列強の餌食となり、満州及びその西方一帯をロシア、華南一帯をフランス、山東省をドイツ、揚子江流域をイギリス、日本も負けじと福建省の一部を勢力下に置くことになる。

こってりとした脂身の喰い合いが一段と激化し、猛烈な競争に発展してしまったのだ。

一方内戦(南北戦争)や米西戦争(対スペイン)によって出遅れたアメリカなぞは、「門戸開放」を唱え、均等な分け前を要求してくるありさまで、大国のエゴは容赦なく清国の主権を侵食するに至るのだが、とにもかくにも件(くだん)の報道特別番組が近代史の洗い直し作業を謳い、往時の出来事を史実として数多く提示して見せたことだけは確かだろう。

翻って、多くの報道関係者たちが事あるごとに主張することがある。

「権力に抗して真実を追究し、それを報道することを以て崇高な使命とする。」「社会正義を守る旗手となる。」などなど、我々がことあるごとに耳にするスローガンは、まことに耳障りの良いものばかりだ。

だが、現実はどうだろう。

果たして彼等は常に社会正義を守ろうとしているだろうか。

多くの場合それは擬態に過ぎず、殊に商業メディアにとって肝心なことは社会正義などにあるのでは無く、あくまでビジネスにあることは子供にでも判ることだ。

営利企業である以上潰れてしまえば元も子もない。

仮に全ての番組からスポンサーが降りてしまえば、ビジネスそのものが成り立たなくなるのだから、スポンサーにとって都合の悪い情報など、なかなか報道し難いのが実情だ。

突き詰めれば、所詮商業メディアなど広告・宣伝の媒体に過ぎず、まして、そのスポンサーたちのスタンスが近頃揃って豹変してしまったのである。

自然、メディア側のスタンスも大きく揺さ振られることになるが、メディアの内部にもさまざまな人間がおり、なかんずく憤懣を抱え鬱々としていた日本人社員が、大きく力を得る流れを生んで行ったことも小さくない。

こう言う流れが、もともと大きな底流としてあったところに、大韓民国の消滅と言う現象が国際的に「公認」される運びとなったのである。

言わば、このことを契機として、これまで鬱積しきっていた何物かを一気に開放させてしまったようなものだ。

戦後六十年にわたって、異様なまでに偏向した歴史観を押し付けられ続け、それは極めて不自然な形で抑圧されて来たのである。

無理に抑圧されて来た分だけ、反動のエネルギーにも激しいものがあった筈で、それは、自らもより強力なエネルギーを補填しつつ、遂には、内外に潜在していたさまざまな障害に勝るほどのものに成長して行ったと言って良い。

近代史に関する解釈や主張が転換し、戦後占領軍(無論主として合衆国)によって使用を禁じられた「大東亜戦争」と言う呼称一つとっても鮮やかに復活することになったのだが、このこと一つとっても、多くの日本人にはさまざまな想いがあった筈だ。

何せ、当時(戦時中)日本と言う主権国家が、正統な閣議を以て決定した正式呼称であったにも拘わらず、公人がかの戦争を指して「大東亜戦争」と呼んだだけで、即座に軍国主義者だなどと極めつけられ、轟々たる非難を浴びてしまうほど「異様な状況」が続いて来たのだ。

日本人の多くが、その正式な呼称を使用することが、あたかも犯罪行為ででもあるかのように感じるまでになってしまっていたのである。

それも日本が主権を奪われていた占領下ならいざ知らず、独立後であってなお、その状態が続いて来ていたのだ。

全く異常としか言いようの無い状況が、かくも長々と続いて来たことになるのだが、結局、日本の商業メディアのスタンスの大転換は、歴史、特に近代史に関する解釈を地滑り的に転換させてしまうのである。

メディアにおいて特別の採用枠によって採用され続けてきた在日コリアンなども一気にその勢力を失い、代わって事実を知りかつ事実を報道しようとする日本人が、報道の現場において多数を占めるまでになったのだ。

それを阻害する要因のほとんどが消滅してしまったことになり、これまで意識的に避けられて来た歴史的事実の多くが、それこそ洪水のように茶の間に溢れ出す事になったが、かと言って、当時の日本(軍)が企図したとされる謀略的行為についても、特別の配慮がなされることは無かった。

秘匿しようとする気配など全く無かったと言って良いのだが、ただ、当時の日本人がそれらの謀略を必要とした周辺事情についても、丹念に描こうとする姿勢が生まれたことだけは確かだろう。

なにしろ、当時はそこらじゅうに虎や狼がうろつきまわっていた時代なのであり、その中で、日本だけが赤子のように天真爛漫な外交姿勢を採っているわけには行かなかったことだけは確かであり、何にせよ、過去においてマスメディアが触れようともしなかった近代史の切断面が、極めて積極的な取り上げられ方をするようになったのである。

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  1. 2007/08/02(木) 12:42:33|
  2. 妄想小説 主権国家|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:6
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コメント

思ったんだけど

各章に タイトルを付けたらどうかしら?
← だけじゃ記号っぽいから どこまで読んだか? どこを読みたいか?解らなくなってしまうのよ^^;;
  1. 2007/08/02(木) 14:24:20 |
  2. URL |
  3. ほたる #-
  4. [ 編集]

^_^

>ほたるさま~

>各章に タイトルを付けたらどうかしら?

激しく同意致します。

(´;ェ;`)ウゥ・・・ でも・・・ むじゅかしい。>┼○ バタッ
  1. 2007/08/02(木) 14:49:51 |
  2. URL |
  3. じいじ #-
  4. [ 編集]

(゚-゚〃)(。。〃)ウンウン 例えば

自立国家の建設021-5「✕✕✕✕(小見出しのような)」
とか…

おっと。 煙草が切れた。
ε=ε=ε=ε=((((/*^ω^)/買ってきまァ~す♡
  1. 2007/08/03(金) 08:50:04 |
  2. URL |
  3. 白馬王子 #-
  4. [ 編集]

^_^

>白馬王子さま

o(´^`)o ウー いま、やってるとこじゃ。しこしこ、しこしこ。
  1. 2007/08/03(金) 10:06:45 |
  2. URL |
  3. じいじ #-
  4. [ 編集]

(*▼0▼*)ノ オォー!!

見やすい!探しやすい!

こりゃいいわ^^ (ノ^Д^)八(^Д^ )ノイエーイ
  1. 2007/08/03(金) 14:53:38 |
  2. URL |
  3. ほたる #-
  4. [ 編集]

^_^

>ほたるさま~

しこしこ、しこしこ。(≧◇≦)ぶははははは
  1. 2007/08/03(金) 15:09:29 |
  2. URL |
  3. じいじ #-
  4. [ 編集]

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