◆ 目次ページに戻るまた、日本では、現国籍法施行下において初の『大帰化』案件が国会の承認を受ける運びとなり、その結果、一人の「外国人」が日本人となることが公に認められることになった。
日本国国籍法第九条では、『日本に特別の功労のある外国人については、法務大臣は、第五条第一項の規定にかかわらず、国会の承認を得て、その帰化を許可することができる。』としており、それに則っての堂々たる手続きであり、衆参両院無論全会一致であったと言う。
この場合、『日本に特別の功労のある外国人』の氏名は秋津州一郎となっており、当人がそれを名誉と思うか否かは別として、「法的効力を持った市民権」を「一方的」に「付与」されたことにより、日本政府は若者を自国民として遇し、その権利を保護する義務を負うことになったのだ。
当人が請求すれば日本国のパスポートを発給しなければならないのは当然だが、当人がそのパスポートを用い日本人として他国に旅することも合法であり、詰まり、若者は秋津州人としての権利を留保したまま、同時に日本人としての権利をも併せ持つことになったのである。
無論ビッグニュースだから、そのニュースはたちどころに全世界を駆け巡った。
当然、海外メディアの論調には批判的なものが目立ち、一国の元首たるものが他国の市民権を持つなど論外のこととして、一旦これを受ければ、国王は国民の支持をまったく失ってしまうとするものが少なくなかったのだが、少なくとも日本のメディアに批判的な論調は見当たらない。
何せ、あの大帝国のオーナーが日本国民になってしまう以上、若者の了解さえ得られれば、日本政府の採り得る選択肢は際限も無いものとなり、日本国の蒙るであろう利益は目も眩むほどのものなのだ。
各国政府の視界の中では日秋連合と言う怪物が一段と成長を遂げ、遂には両国が融合同一化してしまう懸念ばかりが途方も無いものになって行くに違いない。
ちなみに若者自身は事前に国井から協力を要請されていたことでもあり、当然全てを承知していたことになり、しかもその時点で国井の方も若者からある「依頼」を受けていたことが、のちに巨大な政治的意味を持つことになるのだが、現時点では、それはいいとしよう。
さて、日本政府のこの行動は殊のほかワシントンを震撼させ、又してもタイラーを突き動かすことに繋がったが、程度の差こそあれ、それは、ロンドンやパリ、そしてベルリンや北京、或いはモスクワにおいても同様だったろう。
当然ながら秋元雅に対する政治的ニーズは高まるばかりであり、その外交的調整能力に期待が集中し、彼女の日常は各国代表部に招かれ、ひたすら秋津州の意向を問われることで費やされていると囁かれるほどだ。
近頃では、台湾やモンゴル、そしてインドなどの代表部に頻繁に招かれて行っていると耳にしており、タイラーの焦りはいや増すばかりだが、魔王自身がモンゴルやインドとの外交的距離感を殊更に縮めつつあって、逆にワシントンとのそれは開くばかりだと言うものまで出ているのである。
それが証拠に、新田の強い誘導があったにせよ、近頃蒙印それぞれの代表部のものがあの王宮に招かれ、臨月の王妃から手厚い接遇まで受けたと聞いているほどなのだ。
自分にしても雅を通じて、二度ばかり、そのことを打診してみたが未だに応諾の返答に接することは叶わず、その上、最近ではビルやダイアンばかりがことの中心にいて、肝心の米国代表部が置き去りにされてしまっているとの指摘を受けるまでになり、タイラーの繊細な神経はひどく傷ついてしまったかも知れない。
折角取り戻しつつあった体重も確実に減り始め、近頃ではキャンディティームにまで八つ当たりしそうになるありさまだが、無論、彼女たちにしても決して遊んでいるわけでは無かった。
近頃は、久我正嘉と言う男に的を絞ってアプローチを試みている最中なのだが、標的は言うまでも無く王妃の実兄であり、彼女たちにして見れば魔王に次ぐ垂涎の賞金首なのである。
しかし、その報告によればインタビューの申し入れにさえ拒絶の返答しか反ってこないと言う。
どうやら、久我電子の経営破綻時に一方的に妻に去られたことがこの男の女性観を著しく変えてしまったものらしく、その工房付近に網を張り、ときに妖艶な姿を見せ付けても食いつこうともしないらしい。
満足に口も利かないと言うのだ。
女人禁制となっているその工房の中からは、電動ハンマーの音が響いてくるばかりで、標的はひたすらそこに篭もりきりなのである。
世話係として例の三人の侍女がついていることも確認済みだが、彼女たちにしてもその工房に入ることは許されてはいないらしく、隣接する母屋の方で常に待機を強いられているようだ。
挙句、その忠実な侍女たちともほとんど口を利くことが無いらしい。
標的本人は母屋との往復以外ほとんど外出することも無く、ひたすら作刀に没頭していることは確かなのだろう。
また、一部のメディアに秋津州の刀匠として取り上げられたこともあり、この工房を訪れる者もまったくいないわけでは無く、日本からも「日刀保」の重鎮と呼ばれる者までが訪れ、作品の中の幾振りかを多少好意的に評価したとも言われる。
聞けば全くの我流と言うわけでもなく、丹波において秋津州人による作刀を実地に学んで来ているらしく、その作風においても日本古来のものを色濃く留めていると評されており、近頃では物好きにも、わざわざ大金を投じて作刀の依頼をする者まで出て来ていると聞く。
無論、タイラーには日本刀などに興味は無い。
興味は、その標的が胸の底に持つであろう貴重な秋津州情報にこそあるのだが、この有り様では又しても女帝の失笑を買ってしまうくらいが関の山だろう。
ただ、キャンディティームがその闘志まで失ってしまったわけでは無く、現在戸外でしか接触のチャンスが無く、身体的露出度が低いことが問題なのであって、もう少し暖かくなってくれさえすれば、必ず標的を捉えてみせると意気込んでいるほどだ。
何せ、季節は未だ相当に寒い冬なのである。
また、日本に張り巡らせたネットワークからは、俄然あの吉川桜子の活躍振りが伝わってきている。
あの銀座の秋津州ビルの中から相当な影響力を行使しつつあると言い、どうやらその周辺にはビルやダイアンの影までちらつくようだが、依然として情報が錯綜してしまっていて一向に実像が掴めない。
旧政権時にやっと培った官邸内の触手にしても、政権の交代と共に見事に失われてしまっており、溢れるほどの情報があるとは言えその取捨選択には非常な困難が伴うのである。
だが、一つだけ救いなのは、この国井政権の対米スタンスだ。
少なくとも、親米路線を以てその基本的政治姿勢としていることだけは確かであり、肝心の予算の目処がつき次第、米日首脳会談をセットすべく日程等の調整に入っているところなのだ。
例の大帰化案件を平然と通したことから見ても、或いは又秋津州との異常なまでの緊密振りに鑑みても、この政権の重要さは従前の比ではない上に、近頃の議場における総理の発言一つとっても、米日同盟に関するスタンスにも明快なものを感じるに至っている。
何せ自衛権に関する左派系野党の質問に対し、堂々と「自衛権に個別的とか集団的とかの分類はしていない。」と応えたくらいなのである。
無論政府見解の明らかな大転換でもあり、轟々たる非難の声に対して、「目の前で同盟国が攻撃を受けているのを座して見ているくらいなら、その同盟自体を見直すべきは勿論、完全な自主防衛をこそ目指すべきだ。」と言い放ったと聞いており、現実に出来ることと出来ないことがあるとの前提に立った発言ではあったにせよ、いまやワシントンにおけるその評価もうなぎ上りで、両国関係は史上稀に見る良好さを見る思いがすると言う論説も少なくない。
とにもかくにも、この国井政権は我が国のベストパートナーとしての片鱗を見せ始めているのだ。
そうこうする内、七カ国協議のテーブルにそのベストパートナーからある提案がなされた。
新天地における領土分割に関する具体案である。
この案が事前にワシントンに届いたのが二月二十五日であり、ワシントンが対応に窮している間に、三日後の二十八日には七カ国協議においてそれは公式のものとなった。
日本政府は同盟国としての義理は尽くしたと言う格好であり、ワシントンとしても表向き文句の付けようも無かったが、肝心の提案の中身はと言えば、米中露豪加伯など現在大領を領する国々に関しては、押しなべて従来の六十パーセントほどに領土面積を削減するものであり、引き比べて、大人口を擁しながら極めて僅少な領土しか持たない日本などは、既存のものより若干大きめの領土が比定されており、同様の扱いを受けることとされる英仏独などは俄然賛成に回った上、中露二カ国までが消極的賛成の立場に立ったことは小さく無い。
中露に関してだけは、新田からの強い意向が示されていたことは疑いの無いところだろうが、ともかく基本的には米国以外が全員賛成なのである。
ワシントンは窮地に立ったと言うべきだろう。
これでは、いったい何のために中露を席に加えたのか、わけが判らないことになってしまったが、挙句に、米国領に隣接する形で百万平方キロもの無国籍者用の居住区が設定されていたことが、格別にワシントンの癇に障ったことは確かだ。
タイラーの目から見ても、たかが無国籍者のためにこれほどのものを手当てするくらいなら、そっくりそのまま米国領となすべきなのである。
ワシントンの強硬派から言わせれば、それでも未だ足りないくらいなのだ。
このままでは外地における軍事拠点がまったく確保されない流れが見えて来ており、これでは米国の軍事的プレゼンスを示し続けることは困難だと言うのだ。
米国の既得権が大幅に脅かされていることは事実であり、日本の提出案はそのまま飲んでしまえるものでは無いだろう。
ワシントンは問題の無国籍者用の居住区及び、新天地の大海に点在する島々の内、戦略的価値の高そうなものを複数要求したが、その結果、仏中露あたりが激しく反発し、当然、七カ国協議は大いに紛糾することになる。
無論、国連総会や安保理においては、未だにケンタウルスや新天地の件に触れられることが無いままに、全ては秘密会の七カ国協議で闘わされている議論なのである。
一切のメディアをシャットアウトした中でことが進行しているとは言いながら、昨年の十二月初頭、秋津州が各国にケンタウルスの一件を公告して以来、既に三ヶ月ものときが経過してしまっている。
一方で世界のビッグメディアが報道協定を結んでいるとは言え、ケンタウルスの件については既に多数の報道が氾濫してしまっており、一部とは言いながら、地球の未来に関してさえ絶望的だとするような憶測報道も無いではないのである。
ただ、若者の企図した宣伝報道作戦が壮大な規模を以て始まってはいるが、その効果が来るべき混乱をどの程度鎮めてくれるものかは、今のところ微妙なものがあると言うほかは無いだろう。
二千八年三月二日、秋津州王宮の小さな別棟において王子が誕生し、母子ともに極めて健全であると報じられた。
無論、世界は秋津州帝国の王位継承者が誕生したものと見た。
そうである以上、その生母である王妃の拠って立つところも又、磐石のものとなったことになろう。
女帝が企画したとされる祝賀イベントは、当初各村々による小規模の提灯行列のみであったのだが、その後居留外国人たちが大勢加わることによってなかなかのものになって行った。
内務省から無償で配布された提灯が十万に迫るものであったことが、のちになって公表されたのだ。
各国から発出された祝賀の使臣が織るように訪れる中、王妃の両親が慎まし気にインタビューに答える姿があったが、その中に少しく重い発言があり各方面に尽きせぬ話題を提供した。
何と、国王夫妻は揃って、新生児が王子と呼ばれることを望んではいないと言うのである。
しかし、実際に王の子である以上、ほかに呼びようが無いことから、各メディアも例外なく王子として扱うほかは無い。
その後、おぼろげに伝わって来たところによれば、ご夫妻の真意は、新生児が無条件で王位の継承者であると見なされることを、極力避けようとするところにあったようだ。
詰まり、王位の継承そのものが白紙であるとしていることになり、各メディアもさまざまに夫妻の胸の内を忖度して論評を加えたが、中でもNBSが報じた内容が殊に秀逸であったとされた。
何と、国王自身が王位を退き、農夫や猟師として生きる道を望んでいると言うのだ。
だからこそ王子が王子と呼ばれることにも、抵抗を感じざるを得ないのでは無いかとしながらも、将来秋津州の存続に脅威を及ぼすものが存在しなくなったとしても、統治者としての存在意義だけは絶対に消えることは無いとして、お気の毒ではあるが国王のお望みは当分実現の見込みは薄いだろうと断じてもいた。
その報道ではさまざまな人からコメントを集めていたが、中でも東京で酒場を営んでいると言う一人の女性などは、王子をその祖父母の次に抱かせていただいたと言い、国王の統治理念について尋ねられると、「あたしなんかに、そんな難しいことは判りませんけれど、仲間たちがみんなご飯が食べられて、人殺しや強盗が襲ってこなければそれでいいと、いつか仰っていたことなら覚えておりますわ。」と応えていた。
詰まり、そのためにこそ若者は、農夫になったりヘータイになったりしているのだと言うのである。
その報道番組のコメンテータは、番組のエンディングにあたり、「陛下には今後とも農夫やヘータイをお続けいただきたいものです。」と結んでいたが、その真意は、若者の優れた治績に鑑み、「人類のために」と言う意を含んで言っていることは明らかだったろう。
やがて、日秋両国にとって記念すべき外交日程が定まったことが伝わり、世界のトップニュースとなった。
秋津州国王による初の公式訪問なのだ。
国井は、国賓として招請することをとうに閣議決定しており、そうである以上、日本側はあらゆる面において外交儀礼を尽くし、若者を他国の国家元首として公式に礼遇しなければならないことになる。
新田源一が大車輪の活躍を見せ、伊勢神宮参拝のほかにも、さまざまのイベントの予定が組まれたことは言うまでもないが、国井と新田が最も苦慮したのは若者が妻子を伴っての訪日に強く拘ったことである。
何せ、王子は生まれて間もない文字通りの嬰児(みどりご)でありその健康を気遣ったのだ。
なお、これには若干のいきさつが無いこともない。
かつて総理就任前の国井が大帰化案件につき若者に協力を要請した折り、若者の方からもある依頼があったことは既に述べた。
それは、当時出生が待たれていた王子の命名に付いてのものであり、若者は、言わば私人としての国井義人に対し、息子の名付け親となってくれるよう依頼したことになる。
無論、国井は喜んで受けた。
受けはしたが、どうせならと、より一層の工夫を考えかつ工作したのだ。
若者自身の事前の了解も取り付けてある。
その内容はこうだ。
同じ名付け親を頼むなら、秋津州王家から見た宗家のご当主、すなわち今上陛下にお願いすべしと説いたのだ。
その結果この訪問者は、ただただ宗家のご当主にお目にかかり、我が息子の名付け親となってもらうためにやって来るのである。
そのため、王子の帯同を望むのだ。
ときにあたり両国間に外交的な軋轢など一切存在せず、総理と国王との個人的な親密さも飛び抜けたものがあり、何事も二人の直接の会話だけで済ませることが出来るほどの環境がある。
まして、国王の希望は何事も簡略にと言うものであり、到着の場所からして神宮前の対策室に設定されており、国王夫妻と王子の三人だけが、乗り物も使わずに文字通り身一つで飛来してくると言う。
いきおい、出迎える儀仗兵にしても極めて少数のものとなり、全ては異例ずくめのものとならざるを得ないが、東西の迎賓館の受け入れ態勢も完璧であり、さまざまの身の回り品は三階の一室に過不足無く揃えられていて、既に何一つ不自由は無いのである。
二千八年三月十三日、世界の注目を浴びる中、若者は日本を公式に訪れ三日間にわたる外交日程を消化する運びとなった。
その間、夫婦ともにほとんど和装で通したことも大きな話題となったが、その家紋がまたさまざまに大衆の興味を惹いた。
「両杭繋ぎ馬」の変形だったのだ。
この家紋の本来の意匠では、後ろ足を跳ね上げ荒れ狂う黒馬を、その両側に立てた二本の杭に繋ぎ止めてある筈なのだが、若者の場合、向かって右側の綱が引きちぎられてしまっている。
詰まり、かつて頑丈に繋ぎとめていた筈の二本の綱の内、片方が切れてしまっていることになり、取りも直さずこの悍馬を残りの一本だけで辛うじて繋いでいると言う意匠なのだ。
漆黒の肥馬が歯を剥き、たてがみを振り立て、猛然と荒れ狂うさまは、いままさに残りの一本をも引きちぎらんばかりで、それを見た国井総理が誰にともなく呟いたと言う。
「竜の如き馬に騎り、雲の如き従を率いる。鞭を揚げ蹄を催して万里の山を越えんとす。」
総理は、傍らで怪訝な面持ちの年若い随員に一言、「うろ覚えだが、確か将門記だよ。」と言ったと言うが、田中と言うこの随員は、繋ぎ馬の家紋が平将門を縁起としていることから「将門記」が連想され、かの独言に転じたものであろうと思い、後日同僚や先輩の間を尋ね回って、このときの総理の心象をおぼろげながらも察しようとするのである。
ところが、先輩の一人にかなり色あいの異なる解説を試みようとするものがおり、その人の言によれば、総理が想ったのは将門では無く秋津州国王その人だと言う。
詰まり、総理の想念の中で「竜の如き馬に騎り、雲の如き従を率いる。鞭を揚げ蹄を催して万里の山を越えんとす」る者こそ秋津州国王その人だと言うのである。
田中が、確かにあの建国記念のイベントで国王は見事な黒馬に跨って登場しましたよね、と言うと、先輩は、別に馬とは限らんだろうと仰る。
国王陛下にとって、あのSS六こそが「竜の如き馬」なのかも知れんぜ。そして「雲霞の如き従者」を率い、いままさに「鞭を揚げ蹄を催して万里の山を越えんと」してらっしゃるのかも知れないからなあと、のたまう。
何しろこの岡部大樹と言う大先輩は、あの国王の熱烈な信奉者として夙に有名なのだ。
先輩はぽつりと呟く。
「ま、史上稀に見る英雄であることは動かんだろう。」
「はい、私もそう思います。」
「ところが、その英雄がだよ。くっくっくっ・・・」
先輩の顔が笑み崩れている。
「え。」
「あははは、君、聞いとらんか。」
「いえ、何も。え、何かあったんですか。」
「いや、その鬼神も避けようかと言う大英雄がな、あははは。」
もう堪らんというように哄笑してしまっている。
「え、何なんですか、じらさないで教えて下さいよ。」
「うんうん。それほどのお人がだよ、いざ天皇陛下とのご対面と言うときにな、緊張のあまり満足に言葉が出てこなかったと言うんだよ。あははは。」
「へええ、ほんとなんですか、それ。」
「ほんとさ。ホワイトハウスのぬしですら、屁とも思わんお人がさ。」
「ほんとですねえ。いまじゃ、逆にあちらさんの方がきょろきょろしてるくらいですからねえ。」
ワシントンが秋津州国王の顔色を必死の思いで窺っていることは、既に天下周知のことなのである。
「だから俺はあのかたが大好きなのさ。」
「ほう、僕も判るような気がします。」
「そうか、そうか、判るか。」
「はい。」
「それでな、今度天皇陛下から王子のお名前を頂戴することになったよな。」
「はい、真人(まひと)殿下でしたよね。」
「うん。それがな、最初の話では真人の『人(ひと)』は『仁(じん)』の字だったんだよ。」
「へええ、それ初耳でした。それじゃ、秋津州陛下の方がご遠慮なすったってわけですか。」
無論、今上陛下のお名前の「仁」の字そのものを用いることを憚ったのである。
「うん、それにな『真人』なら、八色の姓(やくさのかばね)の筆頭にも通じるからな。」
「しかし、いまどき八色の姓って言うのもどうなんですかねえ。」
「ばかだなあ、君は。日本人としての秋津州一族の意識の中では、一部の歴史が一千二百年も停止しちゃっていたんだぜ。」
「あ、じゃあ、八色の姓って言っても、そんな大昔の話じゃないってわけですね。」
「それにな、あの一族があの別天地に新王朝を建てざるを得なかったいきさつを考えてみろよ。好きでこの地を出て行ったわけじゃ無いんだぜ。」
「そうでしたねえ。」
「彼等はきっと、寂しかったろうよ。」
「そうでしょうねえ。僕だったら、きっと自殺しちゃってるかも知れませんからねえ。」
「うん、そう考えるとだなあ。今度の大帰化案件のほんとの意味も、少しは見えてくるような気がするよ。」
「一千二百年振りの日本人ってことになるんですよねえ。」
「真人殿下の出生届けも出したしなあ。」
無論、それは、日本においてであり、秋津州真人はその意味では既に立派な日本人でもある。
「でも、そうなると少しおかしなことになりゃしませんか。」
「何がよ。」
「いや、だって・・・」
「日本人である秋津州一郎氏が、別に秋津州帝国っちゅう国家を統治してらっしゃるってことがか。」
「は、はい。」
「ものは考えようだろう。山田長政の例だってあるぜ。」
山田長政は、十七世紀初頭にシャム(タイ)の日本人町を中心に東南アジア方面で大活躍した人物で、史実はともかく、文学上においてはその南部の一地方で王位に就いたとされる人物である。
「でも、時代が違うでしょう。」
「ばかやろう、時代もへちまもあるか。日本人の一人が他国の王さまになって何が悪い。」
「い、いえ、でも・・・・」
「じゃ、聞くがな。イギリス人がアメリカの王になってる現実に付いてはどうだ。ましてヤツらは、ネイティブアメリカンを駆逐し、その意思を抹殺して全てを実行したんだぜ。」
この場合の「イギリス人」とは、無論属人的な意味合いで言っているのである。
「しかし・・・・」
「オーストラリヤはどうだい、タスマニア人の希望は百万分の一でも叶えられたのかよ。」
「しかし、民主主義に則って選ばれた統治者と一緒くたにするって言うのも・・・・」
「ははん、だいたい、その民主主義ってえヤツからして怪しいもんだ。」
「でも、民主主義を否定してしまうってのも・・・・」
「ばかやろう。誰も民主主義そのものを否定してなんかいねえだろう。問題はその中身だって言ってんだよ。」
「中身って・・・・」
「わからんやつだなあ。主権在民の『民』そのものが偽者だって言ってんだ。」
「ニセモノって・・・」
「じゃあな、具体例で言ってやろうか。」
「具体例って・・・。」
「大陸からこの日本に数億人も移住してきたとしたらどうだ。無論、力づくでだよ。そいつらが強力な兵器で武装していてだな、我々を駆逐して絶滅させたとしたらどうだ。まあ、お情けで一千万人くらいは残してくれるかもわからんが。」
「そっ、そんなあ・・・」
「その上でヤツラは選挙をやるんだよ。当然、ヤツらが圧倒的多数を取るぜ。それでヤツらの都合の良いルールを造るに決まってるわな。それで民意だなんぞと言われたって、へそで茶を沸かすぜ。」
「しかし、いまどき、そんなこと許されんでしょう。」
「ふふん。許さないからって、本気で止めてくれるヤツが何処にいる。」
「そりゃまあ、ワシントンでしょうね。」
「そりゃあ、いまは、ヤツらの国益に合致してるからな。なんつったって、こっちにゃあ秋津州ってえお仲間がいるしよ。」
「きっと、必死で頑張ってくれる筈ですよね。」
「ヤツらはヤツらで、得点を稼ぐ絶好のチャンスだからな。」
「ですねえ。」
「しかしな、だからと言って他人さまにばかり頼っていちゃいかんぜ。自分たちの国は自分たち自身の血を流す覚悟で守らんとな。」
「でも、血を流すのはちょっと・・・・」
「ふふん、おめえの嫁さんが、おめえの見てる前で敵兵どもに輪姦されていても、そんなのん気なこと言ってられっかよ。」
ちなみに、この田中盛重と言う若者は未だ一人身である。
「いや、それは・・・」
「ボク血を流すのは嫌いですって言ってりゃあ、優しく扱ってくれる相手だとでも思ってんのか。」
「そう言えば、秋津州戦争までのチベットやウィグルなんかも、ずいぶん酷かったらしいですからね。」
「それとな、昨日まで無事に来てるんだから、明日もあさっても無事に過ごせるって考えるヤツぁ単なるバカだ。」
「すいません・・・・」
「まあ、おふくろやにょうぼ子供を守るのに遠慮するこたあねえってことよ。」
「はい。」
「おめえだって、いざとなりゃ日本男児の一人なんだからな。」
「一応、計算に入れといて下さい。」
「あははは、よし覚えといてやろう。」
「ありがとうございます。ところで一つだけ先輩に質問があるんですが。」
「なんだ。」
「秋津州の統治形態のことなんですが。」
「超独裁で人治国家だってことか。」
「はい。」
「それがどうした。」
「いえ、それっていまどき最悪なんじゃ。」
「へえ、どこがよ。」
「民意の在りかがまったく不透明で、その上独裁者が民を恣意的に扱うことが許されちゃうわけでしょ。そんなの無茶苦茶ですよ。」
「おめえは、あの国の現実を知らねえから、そんな寝言が出て来るんだよ。俺の見るところ、あの国は最高の民主主義国家だぜ。第一独裁者をぼろくそにこき下ろしたって平気だしよ。その上、三か村が完全な自治権を持ってるくらいだぞ。」
「だって、成文法が無いんでしょ。」
「ばかやろう。立派な慣習法があらあ。それも長いこと掛けて、庶民が自分で作り上げてきたものばかりなんだぜ。」
「でも・・・」
「おめえなあ、文字にして紙に書いてありゃあ安心できるっつうのか。だいたい文字で書いてあったって、現にこの国の憲法一つとったって解釈一つでどうにでもなっちゃうだろうが。」
「しかし・・・」
「たしかに外国人にとっちゃ、文字で書いてないといろいろ不安なことも判るが、そんなに不安だったら、そんな国になんか行かなきゃいいんだよ。」
「そりゃ、そうなんですが・・・」
「それに、あの国の倫理観てえのは見上げたもんだぜ。まず賄賂なんか絶対利かねえし、へんてこな個人の自由なんて主張も先ず聞いたことがねえしな。」
「へんてこなって・・・・、個人の自由は何よりも大切なものなんじゃ。」
「あのなあ、そこからして大きな間違いなんだよ。個人の自由なんかより、ずっと大切なものがあるってことを忘れちゃいませんかてんだ。」
「あ、公共の・・・」
「そう。憲法第十三条。」
「ええと、日本国憲法第十三条、すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。でしたねえ。」
「ほら見ろ。国民個々の権利なんざ、その自由どころか、生命と比べても、公共の福祉の方が優先されるべきだと謳ってあるじゃねえか。」
「はい。」
「尤も、俺なんざ、そんなもの、今更わざわざ憲法に書くほどのものだとは思っちゃいねえがな。書かなくったって世界中どこへ行ったって当たり前の話だ。」
「この『公共の福祉に反しない限り』ってとこ、どうしても軽く読んじゃいますものね。」
「だから、へんてこだって言ってんだよ。一番大切な、それこそ命より大事なことを忘れるヤツがあるかよ。ばかやろう。」
「すいません。」
「だいたい、おめえらは憲法ったって、てめえの都合のいいとこしか目に入らねえんだろ。それじゃ、文字に書いてあったって意味無えじゃねえか。まったく。」
「・・・。」
「秋津州じゃな、文字になんか一言も書いちゃいねえが、この公共の福祉の大切なところなんざ十二歳の子供でも判ってるぜ。」
「あ、そう言えば・・・」
「うん、あの国じゃ、そのくらいの子供でも己れの村の名誉を、体を張ってでも守ろうとするんだよ。」
事実、そう言う事例があったことも既に触れた。
「そうでしたねえ。」
「国家っちゅうもんの品格っつう点で言って、情け無え話だが、日本より余程優れてるとは思わねえかよ。え。」
「思います。」
「そうだろう。この一点だけ見ても成文法が一方的に優れてるなんて、こっぱずかしくって、とても言えたもんじゃねえ。」
「は、はい。」
「第一、『人命は地球より重い』だなんてことを、あっちこっちで言い過ぎるからいけねえ。」
「で、でも・・・」
「でもってなんだよ。ひょっとしておめえもそう思ってんのか。」
「は、はい。」
「おい、まさか、まじめに言ってるわけじゃねえだろうな。」
「でも・・・」
「あのなあ、最近話題になってる丹波が昔異星人に襲われたって話は知ってるよな。」
「はい、十四歳の国王陛下が奮戦して撃退したって話ですよね。」
「そうだ。早い話が、その星を全部よこせって言われたわけだよな。」
「はい。」
「じゃ、そいつらがこんだ地球にやって来て、おめえの嫁さんを人質にして、地球人は全員地球から出て行けって脅されたときゃどうすんだ。地球そのものをよこせって言われてんだぜ。」
「う・・・・」
「言われた通りにしなきゃ、おめえの嫁さんは殺されちゃうわけだよな。」
「・・・。」
「俺がそんとき地球の王なら、おめえの嫁さんを見殺しにしてでも、この地球を守ろうとするだろうよ。」
「十四歳の国王陛下もそうなさったんですよねえ。」
「ばかやろう。誰だってそうするわい。」
「でしょうねえ。」
「それでも、人命は地球より重いって言いはる気か。」
「いえ。」
「だから、人命は地球より重いってえのは、単なる言葉のあやだってことだよな。」
「そりゃそうですね。」
「それなのに、それは言葉のあやだっつうことをでかい声で言わなくちゃならんところが問題なんだよ。そんなこたあ、言わなくたって判るだろうと思ってる内に結局このざまだからな。」
「はい。」
「まあ、あれやこれやで、俺が秋津州が好きな理由も少しは判るだろう。」
「僕も好きです。」
「あははっ、随分簡単に宗旨替えしちゃうんだな。」
「いや、別に嫌いだったってわけじゃ・・・・」
「ま、いいってことよ。それより次は天皇陛下の秋津州訪問て言うイベントが待ってるぜえ。覚悟はいいかよ。」
「いつごろになりそうなんですか。」
「いま、詰めに入ってるところさ。」
「そうなんですか。」
「ポイントは国王陛下が単身、宮城(きゅうじょう)までお出迎えに見えるってえところかな。」
「へええ、そんなこと出来るんですか。」
外交慣行から言って、普通あり得ないことなのである。
「出来るも何も、それが国王陛下のご希望だってんだからな。」
「でも、ご渡海のおりのお乗り物はどうなんですか。だって政府専用機は駄目なんでしょ。」
「うん、こっから先は機密事項だ。」
先輩は、にやついている。
「ええっ、そりゃ無いですよ。」
「じゃ、ひとつだけヒントをやろう。」
「はい。」
「お乗り物は、四馬力の馬車だ。」
「ええっ、だって行きも帰りも海の上ですよぉ。」
「ふふん。」
「あっ。」
何のために秋津州国王がわざわざ出迎えに来るのか、彼にもやっと判ったようだ。
なお、国井と新田の間では、天皇陛下が訪れるべき先が、太平洋上の秋津州なのかどうかで目下揉めているところではある。
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- 2007/08/17(金) 10:07:49|
- 妄想小説 主権国家|
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