日本大好きじいさんの落書き帳

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自立国家の建設 065

 ◆ 目次ページに戻る

また、今でも半島側が大きく被害を蒙ったと主張する件に、あの悪名高き「創氏改名」問題があろう。

半島側はこの「改名」が日帝の手で強制的に行われ、朝鮮式の名前を強引に奪われたと主張することが多く、最近ではそのような誤解に基づく記述が日本の教科書にまで蔓延している。

本稿の北部朝鮮においても、当初はこの「名前を奪われた論」が圧倒的多数を占めていたが、その後さまざまな情報開示が行われるに連れ、最近では大きな変化が見られると言う。

この件でも、メディアが集めて来た高齢者たちの存在が殊に大きく、ブラウン管の中で、古老たちの語るさまざまの体験談を多くの同胞が目にすることになる。

彼等自身の話によると、この件では、ミセスとなった女性に対してだけは、間違いなく「改姓」が強制されたが、強制されたのはそれだけであって、別に日本風の名前に変えるよう強制されたことは一度も無いと言う。

詰まり、夫側の姓を名乗ることを強制されたまでのことだと言うのである。

ごく単純に言ってしまえば、それまでの朝鮮の風俗文化において女性は一生「姓」を変えることが無い。

「李」さんは、一生「李」さんのままなのである。

嫁いだあとも当然変わらない。

敢えて現代風に言えばいわゆる夫婦別姓であったのだが、ある時期それを不許可とし、人妻の「姓」をその夫側の「姓」に変えるべく国家がそれを強いたと言うのだ。

だが、何もそれは半島にだけ差別的に行われたことでは無く、日本本土においても良く似た政策が採られていたのである。

振り返れば、この日本でも一部の特権階級を除いては長らく苗字を持てず、江戸時代の百姓町人などはあくまで単なる「太助・長兵衛」でしかなかった。

「一心太助」の「一心」や「幡随院長兵衛」の「幡随院」は苗字では無いのである。

このように、いわゆる一般庶民においては苗字を持つことが無い。

いや、勝手に公称することを許されなかったのだ。

それが、維新後の日本では、民法典論争の混乱期を経て始めて現在と同様の姓名を平民も持てることになった。

長らく「姓」を持たなかった庶民に新たに「氏」を創らせたのだ。

「創氏」である。

そして、それぞれの「氏」を束ねる「戸長」を中心とした家族制度を構成し、「戸」を最小単位とする管理体制を布いたのである。

国民国家として富国強兵の道を模索するためにも、中央政府が全国津々浦々に至るまで、国民のデータを直接管理すべく民法等が整備されつつあったことになる。

明治日本の眼前で既存の国家が白人列強の手によって数多く滅ぼされ、或いは今まさに滅ぼされようとしていた時代である。

いざと言う場合、国民を「国家の存続」と言う統一目標のために使役するためにも、全国民のデータの整備が喫緊の課題であったことは言うまでも無い。

いかなる国家といえども近代国家を目指す以上、一国の統治機構が自国民のデータを整備し、的確かつ効率的な徴税システムを打ち建てる必要があり、また、それが無ければ、選挙人名簿一つ作れないことになり、当然代議員の選挙ですら実施することは難しい。

ちなみに、記念すべき第一回目の衆議院議員総選挙は、千八百九十年七月一日に実施されており(但し、その投票資格には、直接国税を十五円以上納付した二十五歳以上の男子と言う制限がありはしたが)、それは、千九百十年の日韓併合より二十年も前のことであり、地方議会に至っては、さらに遡る事十年以上も前に民選制が採られている。

なお、この千八百九十年に発効した明治憲法は、近代憲法として実質的に機能したものと言う点に限れば、アジアで初のものとされており、しかも当時の近隣諸国などには未だ生まれて来る気配すら無い状況であったことからも、当時の明治政府が如何に息せき切って走っていたかが窺えよう。

さまざまな解釈が成り立つにせよ、明治政府が前時代の没落貴族を大量に抱え込んだまま、国民をその端々に至るまで「国家」に参加させようと意図したことは事実であり、その最優先の課題が国家としての生き残りである以上、全国民のデータを掌握するためにも大慌てで近代的な法制度を整備する必要があったのだ。

先ず日本政府は千八百七十年の「平民苗字許容令」によって、平民にも苗字の公称を許し、次いで千八百七十五年に至って、全国民に苗字の登録を義務づけることになる。

この当時の日本国内においても、夫婦別姓の旧習等さまざまな習俗問題が存在したが、その後千八百九十八年になって、始めて妻が夫の苗字を用いる制度が正式に実行に移された。

無論、強制である。

明治政府は全国民に対して、妻が夫の苗字を名乗るよう法を以て「強制」したことになるが、日韓併合から遡ること十二年前のことであった。

一方の朝鮮半島では、日本が日露の役(千九百四年~五年)に勝ちを拾ったことにより、日本の支配権が格段に強まり、日本政府は大韓帝国の政府に働き掛け、朝鮮にも戸籍(民籍)を整備させようとしていた。

その結果、未だ併合以前であったにもかかわらず、多くの朝鮮人民が日本風の名乗りを届出てくるに及んで、実際には日本の側がこれを嫌った。

名前が日本風だと、外貌だけでは日本人と区別がつけ難いことが問題だと言うのだ。

そこで日本政府は、日韓両国の併合(千九百十年)後、改めて「朝鮮系日本人」が内地人(日本人)と紛らわしい氏名に改名することを断然「禁止」することになる。

(筆者註、この場合の「朝鮮系日本人」とは、日韓併合によって新たに「法的に日本人」となった半島の人々の謂いである。ちなみに言えば、これ以前に「台湾系日本人」も同様の意味で存在していたことになる。)

それが、千九百十一年(明治四十四年)十一月一日施行の朝鮮総督府令第壱百二十四号「朝鮮人ノ姓名改称ニ関スル件」とその附則だ。

これによって、「朝鮮系日本人」たちは日本風に改名することは勿論、新生児に日本風の名前をつけることまでも厳に禁じられることになり、挙句、既に「内地人に紛らわしい姓名」を持っていた朝鮮系日本人に対して、元の朝鮮風の名前に戻すよう弾圧まで行っている。

歴然たる民族差別であり、文字通り真の意味での「国家併合」であるなら、本来このような禁止なぞ決してなすべきではなかったろう。

しかし、やがてこの「改名」の禁止が解かれる時が来る。

それこそが、世に言う「創氏改名」令だ。

千九百三十九年(昭和十四年)十一月十日朝鮮総督府制令第十九号、朝鮮民事令十一条の第三次改正のことで、その施行は翌年の千九百四十年の二月だ。

時代は既に、かの真珠湾攻撃(千九百四十一年)の前年であり、理由については諸説(一部の朝鮮系日本人側の強い希望とか)あるが、とにかくこの時期になってから、やっと日本風の名前に「改名」することを「許し」たのだ。

本稿の北部朝鮮の論壇においては、この民籍登録に際して、元通りの朝鮮風の名前のままであれば無料であったものが、「改名」を「希望」する場合には手数料を要した事実まで発掘されて来ており、さらに、彼等朝鮮系日本人がこの民籍登録の手続きを行わない場合も、それまでの名前(朝鮮風)が自動的に登録される仕組みであったことも明らかになった。

旧来の名前が一切変更されないまま、新たな「氏」として使用されたのである。

しかも、この「改名」が自由選択であった証拠として、全く改名せず朝鮮風の名前のままで通した人々の存在が多数列挙されるに及んだ。

それも、世に埋もれた無名の者ばかりで無く、当時の大日本帝国において堂々たる公職にあった人々の名前まで多数出て来たのである。

議員では韓相龍、李埼鎔、朴春琴、また軍人では陸軍中将の洪思翊、陸軍少将の白洪錫、陸軍大佐の金錫源などは殊に名高い。

公職とは言い難いがスポーツ系では、千九百三十六年のベルリンオリンピックで日の丸をつけてマラソンに出場し、日本に金メダルと銅メダルを齎した孫基禎と南昇龍などが最も有名なところだろう。

これ等の人々が当時れっきとした大日本帝国の臣民でありながら、日本風の氏名になぞ改名していなかったことだけは確かだ。

もし、そのことが真に強制的なものであったとしたら、殊に帝国軍人として(朝鮮風の名前を名乗ったままで)佐官や将官になど昇進出来る筈も無い。

結局、日本風の氏名への「改名」が自由選択制であったことが、益々鮮明になってしまうばかりだ。

なお、この「創氏」は疑いも無く強制であって、例えば朴春琴さんの場合、戸籍(民籍)簿に記載される「朴」が新設された「氏」、「春琴」が「名前」と言うことになり、朝鮮の従来からの風俗にも配慮して、従前どおりの「本貫」や「姓」は維持され、抹消されるわけではなかったのだ。

本来、この「創氏改名」は、朝鮮独特の「宗族にかかわる風俗習慣」の根幹に触れるところにこそ大きな問題点が存するのであって、許可制である以上「改名」そのものが問題なのでは無いのである。

まして、全体の流れから見ても、朝鮮系日本人側の方に日本風に「改名」したいとする希望が強かったことは否定しようの無い事実であり、いずれにしても、この「創氏改名」は当時の朝鮮系日本人が「名前を奪われた」話などでは断じて無い。

北部朝鮮では、この様な議論が数多くメディアに登場することによって、自然な形で情報公開が進みしつつあり、そのこと自体が世界に公開されてもいる。


また、一方の中国では共産党の一党独裁などとうに無く、自然、過去の共産党政権に対する批判的な意見が噴出し、その政治的路線についても露骨な修正作業が始まっており、それに伴って自国の近代史観についても、大幅な見直し作業が地滑り的に進行していた。

当然その近代史は、過去の共産党政権にばかり格別に都合の良いストーリーに満ちており、いかなる政権であれ、多かれ少なかれ自らの繁栄に益するプロパガンダを行うのは当然のこととは言え、彼等が半世紀にわたって宣撫して来た「物語」の欺瞞はあまりに露骨過ぎただろう。

確かに中国共産党は「中華民国」を「占領」し、その占領地に極めて情熱的に宣撫工作を施して来たが、その工作は占領地だけに限らず、米英日はおろか全世界に及んでいると言って良いのである。

白人の工作員まで大金をかけて動員し、世界中に創作史をばらまき続けたのも、無論、自らの正当性を補強し、その政権基盤を強化するためだ。

そもそも中国共産党なぞ、その実態は、他の多くのケースと同様、洗ってみれば単なる「地方匪賊」の一つに過ぎなかったからであり、仮にロシアからの支援が無かったとすれば、それこそ彷徨える泡沫のような存在だった筈なのだ。

何しろ、中華帝国皇帝を名乗った一代の梟雄「袁世凱」が千九百十六年に没して以来、益々動乱の坩堝と化した中華民国は、各地に群雄が割拠してさながら戦国の世だったのであり、数多くの戦国大名(軍閥)が、それぞれ日本全土をはるかに凌ぐ広大な領域を支配しながら相争っていたのだ。

尤も、それ以前からその地の治安は一向に定まることが無く、異邦人が活動するにはそぐわないほどの無法地帯が茫々と広がっており、現に日本を含む諸外国の在留異邦人は、千九百年の北清事変の際も義和団の猖獗によって多大の犠牲を強いられ、時の西太后政権は荒れ狂う暴民を鎮圧するどころか密かに連携を計り、あまつさえ諸外国に宣戦布告までやらかしてしまうありさまだ。

清国の正当な政権が行う宣戦布告である以上、清国対諸外国の堂々たる戦争なのである。

当時の清国に勝ち目のあろう筈も無く、程なくして西太后政権は敗北を認めざるを得なくなり、その結果、日本も「北清事変に関する最終議定書」によって、軍隊を清国に駐屯させる権利を公式に得ており、「他国の領土に軍隊を出したことが、すなわち侵略である。」とするような短絡的な論理は少しも成り立たないことになる。

その後におとずれた中華民国時代も動乱の絶えない国情であったことから、在留邦人の保護の観点から言っても現地駐屯軍の必要性が高かったことは事実で、まして、これ等の日本軍が闘ったのは主に蒋介石率いる国民党軍なのである。

中国共産党ばかりが主導的に活躍して、栄光の「抗日戦」を戦い抜いて現在の中国を建国したなどは、少しでも冷静に史料を見るならば、全く噴飯ものの妄想でしか無いことは明らかで、だからこそ、中国共産党の正当性を維持し続けるためには、決して真実が語られてはならなかったのだ。

「正義」の共産軍が戦い抜いた(筈の)、「栄光の抗日戦」における敵方「日帝」は、悪辣な非人道性ばかりが際立ったモノであらねばならず、また、そうであればあるほど栄光の共産軍の旗の輝きが一層増すことになる以上、「創作された物語」の宣伝には大いに力が入って当然であったろう。

この「創作された物語」に本編で新たに書き加えられたのが、「秋津州は古代より中国の領土である」と言うストーリーであり、秋津州の全領土に対し不遜にも領有宣言を発し、挙句に軍事攻撃まで加えて秋津州の無辜の民のほとんどを殺した。

乳幼児でさえ殺しつくし、奪いつくし、燃やし尽くしたのである。

不思議なことに、その残虐極まりない行為の実写映像が全世界に発信されてしまい、もはや弁明のすべも無い。

しかし、この「殺しつくし、奪いつくし、燃やし尽くし」などは、まるで、旧日本軍の高級将校が著したとされる手記「三光」を髣髴とさせるものではある。

この高級士官は、敗戦後中国の捕虜収容所に幽閉されていた方であり、その「手記」とやらも、長い拘禁中に書かれたものであることも判明している。

彼はこの手記「三光」の中で、数百人もの部下を率いて転戦中、中国人に対し、ひたすら残虐行為に走る自分自身の行状を羅列しているが、のちになってこの記述者の正体が明らかになったことにより、その記述にある「場所」や「時期」が論理的にあり得ないものであり、その記述がまったくの「創作」であることが判明するに至った。

歴とした軍事行動の真っ最中の出来事を記述している上に、本人はその部隊の正規の指揮官なのだ。

詰まり、正規の軍事行動の話なのである。

その記述に従えば、この記述者は、上級指揮官にも知られることなく、数百人もの部下を率いて、勝手に出動し自侭に動き回ったことになってしまう。

正規の部隊である以上、誰が考えても到底出来ることでは無い。

結局、この記述者及び部隊が、その時期にその場所には、物理的に存在し得ないことがはっきりしてしまっている。

何せ、記述者の部隊には、団体行動をとっていた大量の生存者がいたのだ。

証言者は一人や二人では無いのである。

その証言者たちが一読しさえすれば、全くの作り話であることが直ぐに判るような記述だったのだ。

日本の将兵を「不法」に拘禁し続けた共産党政権の意図するところは明らかだろう。

なお、中国現地において抑留生活を余儀なくされた方々が作る「中国帰還者連絡会(中帰連)」なる団体が存在するが、筆者も、この三光を公開している「中国帰還者連絡会」のサイト(*)で、改めて全文を読み直してみた。

(*)http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/index.htm

聞けば、「三光」とは、中国の人民から劫掠した戦利品を「全部分けよ」「食い尽くせ」「使い尽くせ」の謂いであるらしい。

日本人である筆者や友人たちには到底理解し難い言葉であることからも、そもそも、この「三光」などと言う用語は日本語では無いのである。

だいたい、この「三光」の「光」は、中国語では「徹底的にやり尽くす」と言う意味だそうだが、日本語の「光」にそんな意味が有るなどとはついぞ聞いたことも無い。

戦後長期にわたって「不法に」抑留され続け、中国共産党の洗脳を受け入れた振りをしなければ、永遠に帰国が許されなかった状況から見ても、強制的に書かされたものであることは明らかで、典型的な創作モノなのである。

また、この記述者ご本人の名誉のために申し添えれば、帰国後のご本人は「活動」はなさらず、沈黙されていたようだ。

だが、一方に収容所から解放されて帰国してからも盛んに「活動」された方々も少なく無い。

筆者は、この「中帰連」のメンバーと称する旧日本兵たちが、あるテレビ番組に出演して、声高に日本軍の悪行をあげつらい罵倒する場面にも出くわし、未だにこのような「活動」が行われていることに改めて思いを致した次第ではあるが、旧日本兵自身の口からその様な発言を聞けば、何も知らない子供たちがその「作り話」を信じ込んでしまう可能性が高く、何よりも国の宝であるべき大切な子供たちの心が傷を負ってしまう。

さらに、これとは別の旧日本兵が「帰国後」に書いた従軍記(無論、悪辣無道な日本軍を声高に主張している)が出版され、かつての日本軍の悪逆非道ぶりを大いに宣伝するネタにされたことがある。

いや、厳密に言えば今でもネタにされているのだ。

また、これが書かれたのが本人の帰国後であることはいかにも重大だ。

挙句にその老人は、戦後何度も中国に出かけて行ってそれを吹聴してまわり、そのたびに中国当局から大歓迎を受けてもいる。

全く不思議なことに、あちらの政府からは、まるで英雄並に扱われていたことも度々耳にしたが、それだけでは飽き足らず、ジンケンハと称する日本人(?)主催の講演会などにおいても、己の妄想(日本軍の悪事)をさも実話ででもあるかのように吹聴して歩いていたのである。

もう、立派に「職業」として成り立ってしまっている、良い実例であったろう。

なお、その手記に書かれている日本軍部隊の残虐行為が真実であれば、全く不思議なことに、そのヒトは所属する軍から離れて、単独で中国人を殺しまくっていたことになってしまうのだ。

その部隊には当然多数の戦友がいた筈であるにも拘わらず、そこに記述された残虐行為なぞ誰一人目撃していないのである。

実は、その従軍記の中身の正当性については、あるいきさつから法廷でも争われ、結局最高裁まで争った挙句、記述者側の正当性が認められることは無く、その結果この夢見る老人の敗訴が確定したと言う報道にも接した。

しかし、その後の老人はそれでも懲りずに「活動」していたと言う。

なお、筆者の見るところ、この場合の「活動」は、中国語では「商売」の意味であるらしい。

これら旧日本兵の「懺悔話」を、格好のネタとしてフルに活用してきた中国共産党の元幹部たちは、本編における現在では徹底的な自己批判を求められ、中には罪ありとして投獄された者までいると言う。

まして、彼等が現実に侵攻して文字通り大虐殺を行った秋津州は、今や彼らの宗主国そのものなのだ。

党員は激減し、事実上、中国共産党は滅んでしまったと言って良い。

現政権の中枢は、反共の旗を掲げる者ばかりがその席を占めるまでになり、彼等にとって、少なくとも、中国共産党が抗日と建国の英雄であり続ける必要など全く無くなってしまったのだ。

現在の反共政権にとって、それが「利益」に結びつくことなど無いのである。

いや、利益どころか、今や有害でさえある。

長らく日本を悪辣極まりない加害者として扱い続けて来たが、そのことによるリスクばかりが際限も無く膨張してきており、そのことを強く認識し始めている者が圧倒的に多いのだ。

外国メディアによる情報が洪水のように流入することによって、さまざまな議論が行われ、それに基づいて一般民衆の間にも多くの動きが出ていると言う。

しかも、今次の秋津州戦において、中国人民軍が行った無数の残虐行為についても、その実写映像が事細かに繰り返し報道されているにもかかわらず、従前とは異なり北京の新政権はそれを制止していないのだ。

その臨場感溢れるさまざまな残虐シーンは、中国人自身が目をそむけたくなるほど凄惨なもので満ちていたばかりか、そこで残酷に扱われている「被害者」たちは、明らかに無力な非戦闘員、それも全く丸腰の老人や女子供ばかりである。

自国軍が上陸参戦した時は、既に秋津州の国防軍は北部朝鮮軍との戦闘によって見事に全滅してしまっていたこともはっきりしており、既にそこには、少数の北部朝鮮軍と現地の非戦闘員以外生き残ってはいなかったのだ。

まして、その後圧倒的な反撃を受け、完膚なきまでに叩きのめされて降伏し、国家そのものが、敵国の支援を受けることによって目覚ましい復興の途上にある上に、国民の大多数がさまざまに恩恵を蒙ることを得た。

近頃の北京の論壇では、対秋津州戦の開戦理由についてさえ、正当性を見出しがたいことが歴然としてしまっていると言う。

ネット上にも、過去の共産党独裁政権に対する怒涛のような批判記事が溢れ、「創作された近代史」に関しても大々的な検証作業が進行中だとされ、中でも象徴的であったのは、「南京の記念館」の展示内容の大転換であっただろう。

周知の通り、この「南京の記念館」と称するものなどは、日本を一方的に悪者扱いにするためだけに建設されたハコモノであり、そこでは、千九百三十七年に日本軍が働いたとされる「大虐殺」に関する(と称する)資料を、大々的に展示してひたすら内外に宣伝し続けて来た。

中国共産党にとって「抗日」の象徴とされたこのハコモノが、大幅な模様替えが行われ、今では千九百三十七年の「大虐殺」に関する資料が全て撤去された上、代わって千九百十三年と千九百二十七年の南京事件に関する資料が展示され始めていると言う。

これなどは、もう劇的な変化だと言って良い。

少なくとも筆者は、千九百三十七年の南京攻略戦において、我が精強なる日本軍が予想をはるかに超える速さで進撃し、大勝利を収めたと言う歴とした「史実」は承知をしているつもりだ。

この当時の日本軍は南京入城以前にも城外での激戦を制し、国民党軍を粉砕し城内を砲撃したことも良く知られたことだ。

詰まり、そのときその地域では歴とした正規戦が行われていたのであり、日本軍側もかなりの損害を出した「戦争」であったのだ。

哀しむべきことではあっても、戦場である以上、死屍累々たる惨状であったとしても、何の不思議も無いと思っている。

また、戦闘中或いは戦闘の結果、逃亡しようとする多数の兵が追撃を受けて戦死するのもまた当たり前のことだ。

よく戦意を喪失して逃げる敵兵を攻撃するのは、非人道的な虐殺行為だなんぞと言うヘンなヒトもいるようだが、通常の戦闘局面で戦場から離脱(逃亡)しようとしている敵兵は、何時なんどき反転して攻撃してくるか知れたものでは無いのである。

明白に降伏していない以上、それを攻撃しないことの方が余程不自然だろう。

その上、シナ兵どもは一旦戦機に利あらずとなれば、直ぐに近隣の民家に飛び込み、あっと言う間に普段着に着替えてしまうことで夙に有名だったのだ。

あとになって振り返れば、さまざまに不条理な出来事が起こらない方が、却って不思議なくらいなモノだ。

最も特筆されて然るべきは、問題のこの時(千九百三十七年)があくまで堂々の「正規戦」であったと言う事実なのである。

その記念館に新たに展示された千九百十三年や千九百二十七年の南京事件とは根本的に状況が違う。

その時の日本は戦争当事者では無いのである。

日本は第三者なのだ。

その当座日本は南京で戦争なぞしていないにも拘わらず、支那軍部隊に一方的に襲われ無残な被害を蒙ったのは居留日本人、それもほとんどが丸腰の文民であったことが大きな違いなのだ。

また、南京とは違うが千九百三十七年の七月に起きた「通州事件」を思い起こして見るが良い。

これもまた、根本的な意味で戦闘などではない。

この通州と言う街で日本人と平和に共存していた筈の支那兵どもが、突如大挙して日本人居留地に乱入して荒れ狂い、劫掠、虐殺、凌辱の限りを尽した、文字通りの「大量殺人強盗強姦事件」なのだ。

この暴乱によって現地在留邦人のうち、幼児十数名を含む二百五十人もの多くが「虐殺」されてしまったが、それもシナ独特の伝統ある「やり口」で殺された挙句、その遺体は見るに耐えないまでに損傷していたのである。

シナ独特の「やり口」においては、女は陵辱し、局所や目玉を銃剣でえぐり、抉り取ったあとには石ころを詰める「やり口」が目立ったと言う。

又、生きたまま鼻や手の平に針金を突き通し引きずり回してから殺すところなんぞも、かつての朝鮮が北九州や対馬壱岐を散々劫掠した時の「やり口」にも、どこか似ている気がしてならない。

これがまた、かつての共産党政権が反日プロパガンダの中で、「日本兵が無抵抗のシナ人に対して行った」と主張していた残虐行為の内容とそっくりであることも、実に子供じみていて微笑ましい。

しかし、まことに残念ながら、我が日本にそのような風習があったとは、筆者は寡聞にして聞いたことが無い。

いずれにしても、本稿における中国ではそのプロパガンダの内容が大きく矛盾をきたし始め、そのまま維持することは最早限界点に近づいていたこともあっただろう。

まして、現政権から見た「日秋連合」の存在感は、途方も無く巨大なものになってしまっている。

いかにも根拠の薄い材料だけを取り上げて、これ以上日本に対して外交上の攻撃を加え続ければ、あの秋津州国王から怒りを買う恐れ無しとはしないのだ。

もしそうなれば、やがて中国の受けることになる国家的損失は、膨大なものとなってしまうに違いないのである。

その損失は、間違いなく国家の破滅を招くほどのものになると言う恐怖は、新たにその国の枢軸を握ることになった人々の全てが共有している筈だ。

ひるがえって内政を見てみれば、人口爆発問題から、いわゆる一人っ子政策が採られた結果、出生届けの出されていない無戸籍者(黒孩子[ヘイハイズ])が数千万人にも達していると言うが、正確なところなどは誰にも判らない。

そこには、その国の統治機構が、国民のごく基本的なデータすら掴む事が出来ないでいると言う無惨な実像があるばかりだ。

まして、いわゆる民主化へ移行するためには、従来から余りに多くの障害を抱え過ぎており、一朝一夕に民主化を実現することなど到底考えられず、何しろ対秋津州戦に惨敗したその国はその後幾つにも分裂し、統一国家としての体をなさない状況にあったものを、秋津州の強力な指導力によって、やっと統一政府を持ち得たほどなのである。

秋津州の支援により国家財政が崩壊の淵から救われ、辛うじて政治的安定を取り戻せたことにより、多くの外国資本も戻り始め、さまざまな産業も立ち直りつつあり、一部の沿岸部などに至っては戦前の活況を取り戻す日も近いと言われているほどだが、ひるがえってその内陸部においては十億に垂んとする民がいまだに食うや喰わずの状況にある。

だが、この悲惨な状況を尻目に中央では熾烈な権力闘争が激化し、あらゆる権謀術数が渦を巻いている今、彼等が権力を奪取するための必要かつ充分な方法は、ひとえに宗主国の知遇を得ることであり、逆に疎んぜられるようなことがあれば、足場を失い一挙に失脚してしまう恐れすらある。

少なからず権力志向を持つ者の視線が、悉く秋津州の方を向いてしまうのも無理は無い。

現実に立国の基盤の多くが宗主国に依存してしまっている以上、これも又ごく自然のことであって、それも中国一国に限ったことでは無い。

秋津州の衛星圏の全域が、おうむね似たような状況にあると言って良いのである。

モンゴルを除く全領域において、永久原動機を用いた発電施設の建設が着々と進み、今ではその完成も近いと言われるまでになった。

まして、狭小な国土しか持たない北部朝鮮に至っては、前時代に数倍するほどの電力施設が稼動を始めたばかりか、驚くべきことに早々と一部外国資本の誘致にさえ成功していたのだ。

秋津州の磐石の支援体制が見込まれる以上、これも又、北部朝鮮と言う敗戦国の未来像が、国際的にも肯定的に評価されつつある現れだと言えよう。

秋津州駐屯軍が齎す政治的安定感には絶大なものがあり、秋津州にさえ見放されなければ、少なくとも前政権の時よりよほど安定した国家運営が可能だと報じられているほどだ。

更に、新政権による積極的な情報開示策と民主化志向路線が、マーケットからもすこぶる好感を以て迎え入れられ、一部とは言え民間企業による新たな雇用まで生み出しており、為政者の今後の施策いかんでは、大きく発展する可能性も無いではないのである。


また、これとは対照的に、秋津州の衛星圏から自ら離れてしまった韓国と言う国の状況には、さらに惨憺たるものがあった。

ほんの数日の間にさまざまな変事が群がり起こり、各地の騒乱は沈静するどころか、かえって深刻化の一途を辿っていたのである。

米国による支援だけは細々と続いてはいたが、青瓦台には既に大統領の姿が無いと言う。

米国大使館に難を避けて亡命を望んでいるとも言われ、そのあとには国軍の将領が多数陣取って軍政を宣布していたが、進んでリーダーシップをとる者がいないことを捉え、誰一人として先行きに自信を持てないためだろうと囁かれていた。

首都圏一帯には改めて戒厳令が布告され、憲法も国会も停止させられたばかりか、電力の供給まで決定的に不安定となり、近郊の地下鉄も完全に運行を停止したままだ。

首都圏の企業にしても、そのほとんどがまともな営業は出来ていない中、民衆の抗議行動が軍の手によって幾度と無く鎮圧され、その都度大規模な流血騒動が繰り返された。

殊に、南部においてはひどく秩序が失われ、青瓦台の威令などはさらに行われることは無く、大小の武装匪賊が多数勢威を張って互いに抗争を繰り返していると言う。

匪賊の多くは軽機関銃まで装備しているとされ、実力で市庁舎などを占拠して独自に「税」を徴収し始めたため、各地で一般市民が税を二重取りされるケースまで起き始めており、既に、国の法貨は姿を消し、USドルばかりが幅を利かせ始めている。

無論、判然としたデータなどある筈も無いが、この動乱の中で理由のいかんを問わず、既に一千万ほどの人口が減じてしまっていると言われる。

その数字が事実であれば、それはかつての人口の二割を超えるほどのモノであり、結局騒乱の中で多くの人命が失われ、或いは国外に脱出して行ったことになるのだろう。

唯一民が庇護を受けるべき国家機構が無力化することによって安寧秩序が破壊され、押し寄せる暴力と飢餓の前に望みを失った人々が、争って国外に居所を求め始めていたのである。

国際人権救援機構などが救護の必要性を声高に叫んではいるが、特段に状況が好転したと言う情報などは、さらに聞こえては来ない。

数日のうちに桁違いに膨大な難民が発生し、その多くが海上から北部朝鮮に流入して行き、その全てが受け入れられつつあることが、現地メディアによって報じられて諸国民の耳目を引いたが、流入した難民は内陸に設けられた数百棟もの巨大コロニーに収容され、必要な物資は自然秋津州の資源に頼らざるを得ない。

北部朝鮮側ではこれら同胞の受け入れについて、非公式とは言え、かなり意欲的であると言う情報が流れ、さらに一層の受け入れ態勢を整えつつあるとされており、その流入は益々勢い付くに違いない。

その一方で、海路日本を目指した者も多かった筈だが、日本にまでたどり着いた者は未だ存在しないとされている。

日本でも、人権派を標榜するグループが大挙して舟を出し、海上で難民を乗せた船と接触し、そのまま日本まで誘導しようと図ったがその悉くが失敗に終わったと囁かれた。

彼等が難民を帯同している限り、徹底して中途から押し返されて、海上の境界付近からは一切接近を許されない。

舟の機関を全開にしても効果は無く、何者かの手によって、数キロもの距離を軽々と押し戻されてしまうと言うのだ。

海上保安庁に配備されたと囁かれる、あの秋津州の大軍団の仕業であることは明らかだが、確実な証拠などあるわけも無く、この件について記者団から辛辣な質問を受ける際も、日本政府の高官たちはひたすら沈黙を守っている。

ある団体などは航空料金まで負担して、東南アジアからの空路を以て小人数づつ強引に入国させようと図った。

それらの不法入国者たちは難民申請を行うつもりでおり、空港付近には多数の活動家が集まりピケを張って気勢を上げ、多くのマスコミの目を集めはしたが、このケースでも当然入国は許されず悉く失敗に終わったと言う。

この点でも日本政府のスタンスは徹底しており、例の空中浮遊物を以て全て即座に送り返されたとされる。

国際人権救援機構や多くの人権派団体から、「冷酷」な日本政府の対応に対して、轟々たる非難の声が揚がったが、日本政府からの特段の声明などは一向に聞こえては来ない。

日本側は、これ等人権派団体の非難に対しても全く反論も弁解も行わず、また、これほどまでの難民を発生させてしまった隣国に対してさえ、一切抗議もせずに見事なまでに沈黙を守りきったのである。

もっとも、今更抗議などして見たところで何の足しにもならないことは明らかだ。

その国は、既に統治能力をまったく失い、あたかも漂流を始めてしまったかのようだ。

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  1. 2006/02/07(火) 22:27:22|
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